日本の「真実」と韓国の「真実」は違うし、違うのが当然という話

AbemaTVのとある番組で、元東京都知事の舛添さんが「(日本も韓国も)お互いに歴史を勉強していない」という趣旨の発言をされたようです。

日本の「真実」と韓国の「真実」は違うし、違うのが当然なのです。
東京都知事を務められ、ご母堂を「オモニ」とお呼びになり、都知事時代に朝鮮学校を誘致までされた「韓国通」の舛添さんともあろう方が今更「歴史認識を共有できる」と考えておられるのであれば、ちょっとどうかと思います。


番組を拝見したわけではないので、全体の発言内容は分かりません。

大まかな趣旨が記事にまとめられておりましたので、そのまま引用させていただきます。

「お互いに歴史を勉強していない。
 我々も植民地時代に色々な差別があったことは反省して、歴史を知らないといけない」
朝鮮半島から日本に働きにきていた人は強制的に連れてこられて大変な思いをした、という一般的なイメージがあるが、必ずしもそうではない。
確かに従軍慰安婦とか挺身隊、強制連行で連れてこられて苦労したということはあるが、それは1944年の終わりから終戦までの話」


歴史を「勉強」なさった方が良いのは確かのようですね。


異なる国同士が「共通の歴史認識」を持つことはありません。
歴史は見る角度によって如何ようにも見ることが出来るのですから当たり前のことです。
理解が進めば進むほど溝を痛感します。

「話せば理解(わ)かってもらえる」
「お互いに理解できれば解決できる」

これは幻想です。


某名探偵の名台詞に 「真実はいつもひとつ!」 とありますが、あれはです。

一つなのは事実です。真実は見た人の数だけあります。
その中から 「もっともらしいもの」 が選ばれるだけです。


日韓に関して言えば事実は「半島はかつて大日本帝国合法的に併合されていた」というものです。
この 事実を韓国側では「植民地支配」と解釈し、それが韓国側の真実となります。

ですが 歴史上の事実「合法的な併合」ですし、日本側の真実も 「合法的併合」です。韓国側に合わせる必要はありません。


「植民地支配」というのは韓国側の「真実」です。「事実」ではありません。
あちらとしては「主権を奪われた」というスタンスで論理を構成していますから当然でしょう。
日本側がその論理を尊重する必要はありません。


「併合」と「植民地統治」は形式上の違いでしかない、という意見もありますがその違いが大事なんです。
重箱の隅をつつくように指摘してこなかった結果、「植民地支配」という言葉が持つイメージが大きく拡がってしまっています。

更に、舛添さんは「強制連行」という言葉も使われていますが、これも「韓国側の真実」であって「事実」ではありません。


日本人にとって大切なのは歴史(事実)を「知る」ことです。
「知る」ことと相手に「理解を示す」ことは全く別です。


更に「反省」となると更に明後日のことです。
「反省」するのは一体「誰」ですか?

私は当時生まれて居りませんが、何を反省するんですか?


まさかとは思いますが「お前の祖父はかつて朝鮮出身者を差別した。孫のお前が代わりに反省しろ」ってことですか?


…そんな話を始めてしまうと、沖縄出身者はどうなります?アイヌの人たちは?
彼らが差別を経験していないとお思いですか?


私の祖父母は「沖縄出身者」です。戦争前に内地へ移住してきました。

私が祖父母への差別に対する「謝罪と賠償」を要求すれば、舛添さんは応じてくださいますか?


まあ、既に亡い祖父母が謝罪だの賠償だの望むとは思えませんし、私自身そんな馬鹿げた発想には至りません。
でも今回の「反省せよ」発言はそういうレベルのメチャクチャな理屈です。


歴史を見る上で「反省」ほど意味のないものはありません。

日本人の歴史観は「流れる川」であり、決して戻すことのできないもの、と言います。
だから日本人は歴史から「反省」ではなく「教訓」を得ようとします。


対して、韓国人は「歴史を立て直す」「歴史を正す」という言葉を好みます。
これは「事実」から解釈できる「真実」を「最も好ましいたった一つ」に固定するための発想のように感じられます。

更に、その「真実」を「最も好ましい形」にするために「事実」すら歪めることを厭わない、そのように感じられることがあります。