朱子学的な物の考え方の話

韓国のニュースを見ていると、コラムだけに限らず、ありとあらゆる記事で日本と比較する内容を見ることが出来ます。
単に比較するだけなら良いのですが、どうも「物差し」がズレていることが多々あります。


例えば、中央日報さんの「【中央時評】プリツカー賞の一つも受賞できない韓国の建築家(1)」から、以下のような部分です。

もう少し比較してみよう。建築の0:8はむしろそれほど恥ずかしいことではない。ノーベル賞は1:24だ。ところが平昌オリンピックの金メダル数は5:4だった。いったい何が問題なのか。

いや、比較の仕方が問題ですよ。

0:8、1:24、5:4というのは韓国:日本の受賞(金メダルの数)の個数比較です。


建築とノーベル賞とスポーツ競技と…「受賞」という要素以外で共通点はありませんよね?相関関係なしと言って良いはずです。


一般化して比較をする場合、例えば読解力が高い子は数学の成績が良い傾向にあるので、数学が得意なのに国語の読解問題だけ極端に苦手なであれば、他と比較して原因を特定することに意味はあるでしょう。

ですが、仮に数学が得意な子がFPSゲームが苦手だったとして、両者に相関関係は見いだせません。

2人の生徒の数学の成績を比較し、FPSゲームの成績を比較し…数学が得意な子の方がゲームの成績が悪かったとして 「いったい何が問題なのか」 なんて普通は考えないです。

何の相関関係も存在しないところに、無理やりパターンを見出そうとしているだけで、ただの拡大解釈です。


私が触れる記事が偏っているせいでしょうか、どうにもこういう的はずれな物差しを持ってきて測ろうとするものがとても多い気がしています。

例えば…「国力」という一つの物差しで「金メダルの数」「ノーベル賞の数」「IQの高さ」「軍事力」「観光地としての人気」「道徳的優位性」…などなど、ありとあらゆるものを測ろうとしているような。
当然、測れるはずがありませんから物差しは機能していません。

そうすると「こんなはずはない」という嘆き節が始まったり、上の記事のように「ところが平昌オリンピックの金メダル数は5:4だった。」と、また別の「都合の良い物差し」を持ってきて「いったい何が問題なのか」とします。


とても奇妙です。

ですが、どうやらこれが「朱子学」的なものの考え方のようです。
「性即理」 というのだそうで。

「理」とは、宇宙の原理のことを言い人間は宇宙万物で一番優秀な存在であるから、最も純粋な「理」を持っており、それを生まれながらに「性」として備えていると考えます。
その「性」のことを 「本然の性」 と言います。
「理」とは本質のことで、ざっくり言うと 良い(優れた)部分という認識で良いかと思います。

つまり人間は生まれながらに「性(優れた部分)」が定まっているということです。
もう一つ 「気質の性」 というものがありますが、こちらは 心(欲望) のことのようです。

これらを合わせると人間の優れた能力は生まれたときから定まっているとなります。
スプーン階級論のような「生まれ」に拘るのはこうした価値観が背景にあるからなのでしょう。


また、ノーベル賞や金メダルなどは結果なのですが、生まれながらに優劣が決まっているとする価値観の元では 「生まれ持った価値(能力)」の証明としての意味を持つのかもしれません。


「発想の逆転」と考えれば面白いモノの見方かもしれませんね。

こうした価値基準が良い/悪いという事に意味はありませんが、「賞」や「ランキング」などの後付けの順位(外部の評価)によってしかモノの価値を裏付けられない、という現状が芸術や自然科学の基礎研究分野の発展の足カセになっていることは否めない気がします。


儒教思想をちゃんと学んだことはありませんが、今現在の物の考え方や歴史の転換期の決定に与えた影響などを考えながら勉強してみるのは面白そうです。