「私はシャルリ」の次は「私はサミュエル」の話

フランスの教師が無残に殺害される事件が起こりました。シャルリ・エブドの風刺画絡みです。
表現の自由に関する授業」でこの風刺画を用いた地理歴史の中学教師が18歳のイスラム教徒によって殺害され、首を切断されるという衝撃的な事件です。

件の教師は風刺画を見せる際に、気分を害するようなら目を背けるように、と生徒たちに促していたそうですけれども、この風刺画を表現の自由の授業教材として使う事自体が不適切だというのが私の率直な意見です。だからと言って、教師が殺されてしかるべきなどとは微塵も思いません。


エマニュエル・トッド氏の「シャルリとは誰か?」を読むと、これが単なる宗教間の対立でもなく、表現の自由などという聞こえの良いものでもないことが分かります。

この本は、今回の事件の風刺画の元を掲載したシャルリ・エブドへの2015年の襲撃事件に端を発した「私はシャルリ」デモに代表される「シャルリ現象」について書かれたものです。


当時、私はシャルリ・エブドの載せた風刺画は、偶像化をタブーとする宗教に対して「表現の自由」の度を超えて差別的、と感じていたためフランスでの「シャルリ現象」にひどい違和感を持っていました。
シャルリ事件や、今回の事件でムハンマドの風刺画が原因になっていることを知れば、大抵の日本人は同じように思うのではないでしょうか?
「襲撃や殺人は極端な行為だが、他者の宗教を馬鹿にするのも大概では?」と。

人によってはこの流れから「言論の自由表現の自由を守る」運動に昇華できるのは流石フランス、となるようです。表面的にはそれでも良いのですが、本質的には見当違いです。


「シャルリとは誰か?」は、お世辞にも読みやすい本とは言えません。原文から意味の欠落を恐れたのか、日本語としてはあまり馴染みのない言い回しが多く、非常に読みづらい文章となってしまっています。
ですのでオススメするかと言われると、ちょっと微妙です。事実と著者の意見が混ざっていて区別が曖昧な箇所も多いです。


本書の中からエッセンスの一部を抜き出すと、次のようなことが書かれています。


  • 風刺による侮辱がフランス的アイデンティティであること・・・①
  • イスラム教徒も共同体の一部として風刺を受けれいなければならないこと・・・②
  • フランスでは宗教的空白(無宗教)が拡大していること・・・③
  • 格差が拡大していること・・・④
  • 宗教的空白と格差の拡大により外国人恐怖症を発症すること・・・⑤


実際、データから現在のフランスではカトリック教徒が減少しているにも関わらず、デモ参加者にはカトリック地区出身者が多いことが示されています。(上のリストでデータ的裏付けがあるのは③、④のみ。①、②はトッド氏の個人的見解であり、⑤は分析意見)


「侮辱がフランス的アイデンティティ」とは、仲の良い友達同士なら軽口で済むことが、知人程度の人に言われるとカチンときてケンカになる...軽く例えるとこんな感じでしょうか?
フランスにとっての風刺とは、共同体として受け入れているという心理的・物理的「近さ」の顕れという側面があります。要はイジりです。(個人的には親しき仲にも礼儀を持って欲しいですが)

イスラム教徒は共同体の一部として一緒にこの風刺を笑わなければならないのに、それを受け入れない。共同体の一部となること(同化)を拒否している。=彼らは外部(外国人)だ。

ここから③〜⑤の反応として「シャルリ現象」が起こったとの解釈です。
デモ参加者の約80%は自分たちがどういう趣旨のデモに参加しているのか理解していない、とされています。
1%の指導層と19%の上級国民によってデモの流れが「テロから表現の自由を守る」にミスリードされているのです。

表面的(政治的)にはそれが正しいと思います。
なぜなら、これを「テロ」として処理しないとフランスの法を守り共同体の中で平穏に暮らしている大多数のイスラム教徒に不利益が生じるからです。最悪、共同体の内部対立が深刻となり、共和国の崩壊を招きかねません。

極端な行動に出たのは一部のイスラム教徒です。一部というか、もう個人の犯行と呼んでいいレベルのものです。多くのイスラム教徒は風刺画に不快感を示しつつも平穏に暮らしています。(今回の教師殺害事件も犯人は全くの部外者だったそうですし)

犯人が「イスラム教徒」だっただけで、その思想をフランス在住のイスラム教徒全体に拡大解釈させることは避けなければいけません。
そのためにこの問題は「共和国に対するテロ」、「表現の自由」でラッピングされて誤魔化されてしまっています。


フランスは寛容な国という外面をしていますし、移民の受け入れ政策にしても実際寛容なのかもしれません。
けれども、その寛容性は「フランスのルール」に従う場合にのみ与えられるというのが現実で、それには今回のように風刺を受け入れなければならない、公共の場でヒジャブを被ってはいけない(政教分離の徹底)、というような場合によっては侮辱的・差別的な制約が課せられます。
もっと乱暴に言うと「みんながフランス語を話し、フランスパンを食べ、フランス風の衣服を着ることによって差別を内在化」することでもあります。(日本のように文化的に均一的な社会を目指すわけです)

当事者のフランス人はそれを決して差別的とは感じていません。共同体として当たり前のことなので。
著者はこれを「普遍的主義に起こる倒錯」と呼んでいます。自分の「当たり前」がみんなの「当たり前」だと勘違いすることです。
外側から見ていると歪みがよく見えます。

日本にも内からでは分からない歪みが沢山あるんでしょうね。