「太宗実録」「世相実録」「東国興地勝覧」に出てくる于山島と武陵島...鬱陵島の記述と解釈した方がスッキリするの話

もうすぐ竹島の日ということで、韓国で「独島」の領有権の根拠とされている資料について代表的なものをいくつか紹介します。

日本側の資料も根拠として使われることがありますけれど、今回は朝鮮側の資料に限定します。時期も安龍福事件(1690年代)以前のものです。なぜなら長くなるからです。

DCinside.comに投稿されていた記事ですが、2014年頃に書かれたブログ記事に同様の記述を見つけたので転載かもしれません。
念の為、引用元に両方のリンクを記載しておきます。

 



正直に読みやすい文章とは言えません。なので先にポイントを書いておきます。

  • 太宗実録から分かること
    1. 于山島・武陵島には86名の住人が居る。
    2. 太宗の命によって全員が本土へ移送(移住)させられることが朝議で決定。
  • 世相実録から分かること
    1. 肥沃な土地で物産が豊富である。
    2. 東西南北に50里*1の大きさである。
  • 東国興地勝覧から分かること
    1. 朝鮮本土の東海岸から見た島の具体的な描写。(朝鮮本土から見えるということ)
    2. 于山島と鬱陵島が「一つの島」説と「二つの島」説があること。

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DCinside.comの記事、およびこちらのブログ記事からです。

朝鮮は独島を于山島と認識したのだろうか?


結論から言えば違う。
これについては明白な複数のファクトを時代順に提示して説明する。
私が提示したファクトの大半は朝鮮王朝実録や古典翻訳院に行けば検索できる。
ファクトを付けてファクトの内容をそのまま説明する。

まず、安龍福*2事件以前の朝鮮中期以前の朝鮮人が認識していた于山島である。

1-1 太宗実録
按撫使の金麟雨(キム・インウ)が于山島から戻って土産物の大竹、水牛の皮、生苧*3、綿子、檢樸木などを納めた。また当地の居住民3名を従えてきたが、その島の戸は15口、男女を合わせると86人だった。金麟雨は帰るときに2度も台風に遭ってやっと生きて帰ったという。

1-2 右議政の韓尙敬(ハン・サンギョン)六曹(ユクチョ)臺諫(テガン)に命じて于山・武陵島の住民を移住させることの利便性を議論させると、皆が言うには「武陵の住民は追い出さず、五穀と農機を与えそのなりわいを安定させてください。主帥を送り彼らを慰撫し、また土貢*4を決定することが重要です」
が、公曹判書の黄喜(ファンヒ)だけが唯一不可とし、「安置せずに早く押し出しましょう」
すると王は「退出する策が正しい。
あの人たちは早くから雑用*5を避けて楽に暮らしてきた。もし土貢を定め主帥を置いた場合、彼らは必ず嫌がるだろう。長居はできない。金麟雨をそのまま按撫使とし、引き返して于山・武陵などに入り、そこの住民を従えて陸地に送り出すのが当然だ
とし、そのため衣・笠・木靴を下賜し、また于山の者3人に対してもそれぞれ衣を1着ずつ下賜した。江原道の観察使に命じて兵船2隻を与え、都内の水軍萬戸と千戸のうち有能な者を選んで金麟雨と共に行かせた。

-> 最初の資料は金麟雨が于山島に住む3人を連れてきてその島に86人が住んでいると報告した後、3日後の(二番目の資料)朝廷で于山・武陵の住民移住*6を議論する内容だ。
太字部分を見れば分かるだろうが、于山島が独島なら人が住むことは話にならず、武陵島の住民は移住させるな、という提案に(すなわち、于山島の住民は移住させよ、という意味)太宗は黄喜の、全員を移住させよという意見を受け入れ、于山・武陵島の住民全員を連れてくるよう命じた。
そして3日前に金麟雨が連れてきた于山島の3人に服まで下賜したと記録されている。


世相実録

牛山島*7と茂陵島*8の2つの島には邑*9を設置するだけで、その物産の豊かさと財用の裕福さは楮木・苧桑·大竹·海竹・魚膠木·冬栢木·栢子木·梨木·柿木・ 鴉鶻·黒色山鳩·海衣·鰒魚·文魚·海獺 などの物産が無いことはなく*10、土地が肥沃で禾穀の生産が他の地方より10倍にもなる。東西南北の距離がそれぞれ50余里になるので民が居住することができ(以下略)

-> 于山島に邑を設置..つまり、村を設け肥沃な土地の島であると記録されている。
独島はそのような要件を備えた島ではない。
さらに、東西南北の距離が50里というのは鬱陵島の大きさを説明したと見るのに適している。


世宗実録地理誌蔚珍県(韓国が独島の固有領土主張時に使う証拠だが、世宗実録地理誌の真実は?)

(上略、蔚珍県周辺について述べる)
于山と武陵の2島が(蔚珍)県の真東の海中にある。【2島は互いに距離が遠くなく、晴天ならば眺めることができる。新羅時代に于山国、または鬱陵島と言ったが地方が100里であり(中略、鬱陵島について述べる)、さらに三陟の人・金麟雨に命じて安按使として人々を移住させ、その土地を空けるようにしたが麟雨は「地は肥沃で竹の大きさが柱のようでネズミは大きさがネコのようで、桃の種が升のように大きい」と言った。

国内の学者たちは世宗実録地理誌を于山島を独島、武陵島を鬱陵島と規定し、晴れた日に2つの島が互いに向き合うと解釈するが、これは誤った解釈である。
確かに世宗実録地理誌では最初に蔚珍県を中心に蔚珍県の周辺を描写しているので、蔚珍県から東海岸に浮かぶ2つの島が見えると解釈するのが適切だ。
つまり、お互い遠くない2つの島が晴れた日に(蔚珍)県で見られる、ということ。
ちなみに于山島チュクド*11論を信じていない人は于山島がチュクドなら晴れていなくても鬱陵島で着実に見える。陸地ではチュクドは見えない。このように、あそこから遠くない2つの島は共に鬱陵島だ。それを2つの島と勘違いしたという記録は次の文章を見れば分かる。

新羅の時代に于山島、または鬱陵島といったが、地方がが百里であり> 2つの島を鬱陵島と言ったというが、実際に鬱陵島は1つの島。
そして百里の次に、中略したが原文を読んでみると、ずっと鬱陵島についての説明であることが確認できる。独島に関する説明はどこにもない。
(陸地から見える鬱陵島を詳しく描写した東国興地勝覧の場合は1つの島である鬱陵島・于山島を2つの島と勘違いしたという記録であることは明白だが、これについてはすぐ下で説明する)
そして中略の後、最後に金麟雨の話が出てくるが、金麒雨の話があのように出た、ということは世宗実録地理誌の于山島と武陵島を訪問した金麟雨の報告を参考にして鬱陵島を説明したと言ってもいいだろうが、金麟雨はすでに先の太宗実録で于山島には人が住んでいると報告し、朝鮮朝廷でもそれらの処遇について議論した。


東国興地勝覧

于山島・鬱陵島・武陵とも、羽陵という。2つの島が町のすぐ東側の海の真ん中にある。3つの峰が真っ直ぐに聳え、空に届くが南の峰が少し低い。風と天気が晴れていれば峰の上の樹木と山の下の砂浜をありありと見ることができ、順風なら2日で行ける。一説には于山・鬱陵はもともと1つの島で地方が百里だという。(以下略、世宗実録地理誌と同様に鬱陵島について叙述)

-> 世宗実録地理誌の記録とあまり変わらず、追加されたものがあるとしたら蔚珍で武陵島と于山島がどのように見えるか具体的に描写した。
(参考までに東国興地勝覧は蔚珍視点であることは韓国の学者たちも認める事実である)
重要なのは、一説には于山、鬱陵がもともと一つの島というのと、記録では周囲は百里というのが世宗実録地理誌と同じだ。
そのように一説には一つの島だ、ということを強調するとこのような反論が出る。
説は説に過ぎない。注釈は二つの島説である。
このような反論は一説の核心と前提を誤って指摘する反論に過ぎないが、そのような説が出たこと自体が蔚珍から見える于山と武陵島の姿、すなわち于山と武陵島が二つなのか一つなのかよく分からない、ということだ。
もしあれが鬱陵島で独島の話なら、独島が見える場所は鬱陵島だけで、鬱陵島で独島を見るということは、結局、鬱陵島がどういう形なのか知っているが、鬱陵島で独島を見ながら両島は一説には一つの島と記録すること自体が、腑抜けて無いのなら話にならない。

つまり世宗実録地理誌は陸地において鬱陵島を二つの島と勘違いして見たに過ぎず、東国興地勝覧にその事実が具体的に明確に述べられている。
(そのためか当時制作された古地図で于山島が鬱陵島の西側を含む(東国興地勝覧の八道総図も含む)それぞれの方向に描かれた地図が多いこと、鬱陵島で独島を見たらどこが東なのか分かるが、あんな風には描けない)

その他、当時の知識人たちが陸地から眺めた于山島、鬱陵島

眉叟記言(ミスギウォン) キム・ジスプ
当時、東暆*12江陵に出て楓嶽山と五台山に登り、海辺を遊覧し、越松亭を歩き鬱陵島と于山島を遠くに眺めた。

-> 越松亭..すなわち、キム・ジスプは陸地から鬱陵島と于山島を眺める。

ホ・モク

寒松亭の下には述郎井と石竈・石池があり、平海の越松浦がある。于山島と鬱陵島は一つの島だが、眺めると3つの峰が高くそびえる。海が快晴になれば山の木を見ることができ、山の下には白い砂が遠くまで伸びている。

-> ホ・モクも陸地から于山島、鬱陵島を眺めている。
ここで大事なことはホ・モクは一説云々言わずに于山島と鬱陵島がもともと一つの島だということを正確に知っているということ。

キム・マンギ

「神が昔、江原都事にいるとき時、[5] 海上で居住する人に鬱陵島を尋ねたところ島を示してくれました。神が早く起きて遠くを眺めると、三つの峰がありありと見えたのですが、日が昇る頃には全く見えませんでした。これで霊巌の月出山から済州を眺めたのと比べるとむしろ近い方です。

ナム・グマン

我が国の江原道の蔚珍県に属する鬱陵島という島がありますが、本県の東の海の中心であり、波が険しく航路が悪いため数年前に民を移動させ行き来を頻繁に行ったということで捜索を行いました。本島は山の峰と樹木を内陸からもはっきり見ることが出来、山河の屈曲と地形が広く狭く、住居の跡と取れる物産は全て我が国の<興地勝覧>という書籍に載っており、これは歴代に伝わる史蹟であることに違いありません。

-> 上の2人は鬱陵島だけに言及したが、ここで重要なことは三つの峰の樹木、山の麓の白砂、このような文句の上、東国興地勝覧の于山島も鬱陵島を説明する時に出てきた文句をそのまま引用。
そのためかナム・グマンだけは鬱陵島に対する説明が(東国)興地勝覧に載っていると言う。

ここまでが安龍福事件以前の于山島と鬱陵島に関する記録だ。
公道政策によって鬱陵島に行くことがほとんどなく、陸地で于山島と鬱陵島を眺めながら、あれがどのように構成された島なのか判断がつかないのは明白だ。

(後略)



DCinside.com「조선은 독도를 우산도로 인식하였을까?(朝鮮は独島を于山島と認識したのだろうか?)」
および
Naver blog「독도진실알림이」「고지도와 문헌으로 보는 우산도는 독도를 설명하고 있을까?(古地図と文献に見られる于山島は独島を説明しているか?)」 より一部抜粋

于山島が現在の竹島(韓国でいう独島)でないのは「朝鮮本土の東海岸から視認できた」事実、これだけで明白な気もします。

物産を現代日本語でなんと表記されるものなのか詳細はチェックしていません(柿の木だけ調べました。読めなかったので)。
が、確認しなくとも竹島に材木が「物産」として挙げられるほど豊富だとは考えられません。

ちなみにですが、もともと一つの島だったのが二つに云々と書かれている部分について、これは物理的に一つの島が二つに分かれたと伝承的な話をしているのではなく、一つの島を人間が勝手に二つと考えていたに過ぎない、という意味です。
どちらとも取れそうな表現なので念の為。

 

韓国側の出してくる資料、根拠は于山島あるいは武陵島について書かれたものを「独島」に関する記述、とするのですが「独島」ではなく「鬱陵島」の記述として見たほうがしっくりしますよね。
そういえば「独島」という呼称が一体いつ、どこで使われ始めたのかも分かりません。

日本の「竹島」ではなく、韓国語で「죽도(チュクド:竹島)」という島があります。鬱陵島のすぐ東側にある小島です。どう見ても鬱陵島の一部です。
これにわざわざ「죽도(竹島)」と名付けたのはなぜなんでしょうね?昔日本が鬱陵島を「竹島」と呼んでいた(現・竹島は「松島」)からそのなごりでしょうか?
イジワルな私は、これは日本が言う「竹島」を「죽도(竹島)」と誤認させて反日を煽る戦略だったのではないかと疑ってしまいます。
だって「于山島」は「죽도(竹島)」にしか見えませんもの。直感的にはそう思う人が大半なのではないかと思います。
なのに敢えてそれに触れない、見ない(見えない)のには何らかの意図があったのでは?と勘ぐりたくなります。

*1:中国、朝鮮あたりの1里は約400m〜500mらしいので20〜25kmとなる。

*2:1693年と1696年の2度、日本に渡り朝鮮の領土主張をした人物。

*3:多分、糸の原料になる繊維のこと。

*4:たぶん、税のこと。

*5:搖役

*6:※原文は「쇄출(刷出)」だが、日本語の「刷出」に追い出す、押し出すのような意味は無いと思うので意訳。

*7:原文ママ

*8:原文ママ

*9:人口2万〜5万の地方行政区画。

*10:つまり豊富

*11:鬱陵島のすぐ東にある小島。漢字で「竹島」と書く。日本の「竹島」と区別するために、ここでは韓国語の音で表記する)

*12:今の江原道のあたり