ムン政権5年の致命的失敗は「自由(Liberty)」を抑圧し、政権交代を「建国」と勘違いしたことという話

5年間のムン・ジェイン政権の失敗として「自由を抑圧したこと」としているコラムがありました。また、政権交代=建国と勘違いした、とも。政権交代を「易姓革命」に例える解釈は日本でよく見かけますが、韓国の言論では見た覚えがありません。

ろうそく集会で誕生したムン政権にとって「ろうそく精神」こそが自身の正当性の証です。
しかし、コラムでは「ろうそく精神」が唱える「広場民主主義」は「自由民主主義」ではない、とします。
なぜなら、近代民主主義が誕生したフランスの憲法には「国民は代表者と国民投票によって主権を行使する」と規定(限定)されており、「ろうそくを持って広場に集まって主権を行使せよ」とはなっていないから、と。

韓国(と一部日本メディア)がろうそく集会を民主主義の完成形のように持ち上げまくっていた頃から、主に日本のネット言論では「いや、それ選挙でよくね?むしろ選挙じゃなきゃマズくね?」という雰囲気が主流でした。ですので今更感が無くもないのですけれど、「ろうそく精神は◯セ民主主義」と、ここまでハッキリ書いてある記事は珍しいんじゃないでしょうか。

 



ペンアンドマイクの記事からです。

[チョ・ドングンコラム]自由抑圧した「ムン・ジェインの5年の失敗」自由の拡散を必然としなければならない


ムン・ジェイン政府5年の致命的な失敗は、歴史の中の遺物として消えた社会主義に未練を残して徹底した平等主義に陥り「自由」を抑圧したためだ。「一度も経験したことのない世の中を作る」ということは「政権交代を建国」と勘違いしたことだ。その根底には左派の傲慢な「設計主義」が敷かれている。

(中略)

ムン・ジェインは就任演説では自制したが、退任の挨拶では「ろうそく精神」をついに表した。彼は「国政壟断事件で憲政秩序が崩れた時、国民は最も平和的で文化的なろうそく集会を通じて政権を交代し、民主主義を再び起こした」と話した。そして「国らしい国を要求したろうそく集会の熱望に、韓国政府がどれほど応えたのか粛然とした気持ち」と話した。

ろうそく精神が唱える「主権者民主主義」は、広場民主主義、そして類似全体主義と繋がっている。ムン・ジェイン政府は憲法1条2項「大韓民国の主権は国民にあり、すべての権力は国民から生ずる」と引用し、これを「すべての権力は『ろうそくを持った』国民から生まれる」とひねった。憲法1条2項の「国民」は君主制廃止で「空席となった国王」に代わる「象徴的存在としての国民」を意味するもので、政治的大衆集会に集まったろうそくを持った人々を意味するものではない。

主権民主主義」信奉者たちは、民主主義は選挙や代表者委任に限らず「自ずから行使され、どこでも行使され、常に行使される」としてきた。それなら、ムン・ジェイン政府の究極的な志向点は「広場民主主義」だ。自由民主主義が「広場民主主義」なのではない。

フランス憲法(3条1項)は「国家主権は国民にあり、国民は代表者や国民投票を通じて国家主権を行使する」とされている。主権の行使方式を「代表者と国民投票」に限定したのだ。これは広場での主権行使を認めないということだ。

(中略)

全体主義思考は「原子化された個人の上に善良であり全知である国家が入ることが可能であり、また必要だ」と信じる。国家全体主義(類似全体主義)で国家は「私の人生に責任を負う国家」と解釈される。ムン・ジェイン政府の国政哲学も「私の人生に責任を負う国家」だ。だが、これは通常の意味で国家が「国民の生命と安全、そして財産の責任を負う」ということとは次元が異なる問題だ。固有の生産資源を持たない無生産国家が「国民の暮らしの責任を負う」ということは虚構に過ぎない。

(中略)

自由民主主義は「国家権力から個人の生命と財産、そして自由を守ってきた闘争」の歴史だった。権利章典名誉革命、1689)、米国の独立宣言(1776)、仏蘭西市民革命(1789)は、すべて国家という絶対権力との闘争で勝利したことを記録したものだ。このように勝ち取った市民的権利としての政治自由が市場と結びつき、今日の繁栄が実現したのだ。

(中略)

自由主義がこの地に定着するためには、一人一人の「自由の重さ」を乗り越えなければならない。自由の重さに耐えて堂々とした社会構成員になるとき、自分自身と社会が発展できるためだ。

(後略)



ペンアンドマイク「[조동근 칼럼] 자유 억압한 ‘문재인의 5년 실패’ 자유 확산 당위 삼아야([チョ・ドングンコラム]自由抑圧した「ムン・ジェインの5年の失敗」自由の拡散を必然としなければならない)」より一部抜粋

社会主義において設計主義(計画経済)が失敗したのは、このような生産様式では人間の勤労動機と創造性を誘発することが出来ないため、とされています。
みんながみんな同じ服装をすることが「平等」なのであれば、ファッションが発展することはありません。
日の出から日暮れまで畑を耕すことが与えられた労働であるのなら、暴風雨が吹き荒れる夜中に畑のビニールハウスを守りに行くようなことは誰もしません。
手間を掛けることで得られる付加価値や努力に対する正当な評価を全否定したものが社会主義における「平等」と言えます。

 

文中に散りばめられたウンチクはガッツリ省略しております。そのため話の繋ぎに若干唐突感があるかもしれません。

記事中で言われている「自由」とは、もちろん「Liberty」のことでしょう。自ら勝ち取った権利としての「自由」、自らで選択できる「自由」です。
だからこそ「自由の重さ」という話が出てきます。自らの選択に自らが責任を持つ、と言い換えてもいいかもしれません。いつも「他人(日本)のせい」な韓国には難しそうですが...。