【バンダーさん】「日本の江戸が樹立した世界記録のいくつか」の話

趙甲濟ドットコムよりバンダービルドさんのコラムから「日本の江戸が樹立した世界記録のいくつか」です。

昨日のノーベル賞初年度の1901年から日本は候補者を排出していた話とも関連する内容です。できれば一緒に載せたかったんですけれど、どちらもそれなりの文量があるので分けました。

日本がノーベル賞候補者を多く排出してきた背景には、中国や朝鮮に先んじて西洋の文物を「たまたま」取り入れられたからではなく、江戸時代にきちんと素地が作られていたからこそ可能であったのだということがよく分かります。


日本の江戸が樹立した世界記録のいくつか

世界第一の識字率、世界第一の都市人口、世界第一の就学率、世界第一の衛生(清潔)、世界第一の水道

260年以上もの間、大きな戦争無く泰平の御代を享受したのは世界史上、江戸時代(1603〜1867)当時の日本が唯一だ。江戸は今の東京である。

¶世界一の識字率
日本の識字率は数百年にわたって世界一だ。江戸時代(1603〜1867)を見ると、武士はほぼ100%字の読み書きが可能だった。庶民層の場合も男性の49〜54%は文章を呼んだり書いたりすることが可能だった。江戸時代、英国の下層庶民層の場合、ロンドン地域でも読み書きが出来る子どもは10%も居なかった。江戸時代の日本は就学率とともに世界最高だった。1850年頃の江戸の就学率は70〜86%で、下町に住む子どもでも勉強しない子どもは男女ともに珍しかった。

日本橋、赤坂、本郷などの地域では勉強する人数が男子より女子の方が多かったという記録がある。当時の「寺子屋(江戸庶民の子どもが通う私立教育機関)」は義務教育ではなかった。「寺子屋」制度は庶民たち自身の熱意によって自発的に発生したもので、世界的にも珍しいケースだ。当時の日本は「重要なことは国(官庁)が解決しなければならない」という発想をせず、自分たちにとって重要なことなら自分たちが自主的に運営するのが当然だという思慮をもっていた。

これに対して1837年頃、英国の大工業都市の就学率はわずか20〜25%だった。19世紀中頃、英国の最全盛期ビクトリア時代でさえ、ロンドン下層階級の識字率は10%程度にとどまったという。フランスは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10〜16歳の就学率はわずか1.4%に過ぎなかった。

多くの外国人が日本の識字率が高いことに驚き、これに関する記録を残した。米国から黒船を率いて1853年に日本を訪れた「ペリー」提督は、自身の日記(日本遠征記)に<日本は文章の読み書きが普遍化し、見聞を広めることに熱心だ>と書いている。ペリーは当時の日本の田舎にまで本屋が存在していたことと、日本人たちが本好きなことに驚いた。

1860年に通商条約を結ぶために日本を訪問したプロイセン海軍の「ラインホルト・ヴェルナー」(エルベ号艦長)はこのように記している。

<子どもの修学年齢は7歳または8歳に見えるが、子どもたちは学習が早い。民衆の学校教育は中国よりも広まっていた。中国では民衆の大半が男子のみ就学するのとは異なり、日本の場合は中国同様、私立学校しか無いのにも関わらず女子も勉強している。日本では下層階級の女子同士もお互いに文を書いて手紙をやり取りし、下層肉体労働者でも文の読み書きが可能で、私たちを驚かせた。日本の民衆教育について私たちが観察した所によると、文を全く読み書きできない文盲は1%に過ぎない。世界のどこの国がこんなこと(文盲1%)を主張できるだろうか?>

1861年に函館ロシア領事館所属の主任司祭として日本に赴任したロシア正教会宣教師「ニコライ」は8年間、日本に滞在した。彼は帰国後、ロシアの雑誌「ロシア報告」に日本についてこう書いた。

<全階層に渡り、地域を問わず、ほぼ同一レベルの教育が実施されている。日本は「孔子」が学習知識の相当部分を占めているが、学を備えた日本人は一言一句まで暗記しており、身分が最も低い庶民でさえ、その内容をかなり知っている。どの下町や山あい*1へ行っても、頼朝・義経楠木正成などの歴史的人物を知らないことはなかった。読み書きができ、読書が出来る人の数からすると日本は西ヨーロッパ諸国のどこにもひけを取らない。日本人は文字を習うのに本当に熱心だ>

トロイ遺跡の発掘で有名なドイツの考古学者「シュリーマン」は1865年、日本を訪問した時に受けた印象を自分の著書にこう書いた。

<教育はヨーロッパの文明国家水準以上に実施されている。中国を含む他のアジア諸国の場合、女子たちが無知のただ中に放置されているのに対して、日本では女子と男子がみな「仮名(日本文字)」と漢字で読み書きできる。>

¶世界一の都市人口
-フランス パリ(1802年頃)人口:62万人
-英国 ロンドン(1801年頃)人口:86万人
-日本 江戸(1725年頃)人口:112万人
→当時の江戸は世界一の都市

¶世界一の就学率
-英国の就学率(1837年頃):20〜25%
-フランスの就学率(1793年頃):2%
-日本の江戸時代の就学率(1850年頃):85%

¶世界一の衛生(清潔)
-1800年代、英国のテムズ川などは様々な排泄物などでひどく汚染されて不潔だったため、伝染病などの原因となった。
-これに反して当時の日本の江戸の川はきれいだった。理由は排泄物が「窒素」と「リン」を含む優れた有機肥料であるという点で、当時の日本では排泄物が高価格で取引されたためである。排泄物の価格が急騰し、後に幕府が介入して排泄物の価格を引き下げるよう矯正する法令まで制定し、公布した。
→江戸時代当時の日本を訪れたドイツの考古学者「ハインリヒ・シュリーマン」は「日本人が世界で最も清潔な国民だということに疑いの余地はない」と言及した。

¶世界一の水道
-井戸は通常、地下水を汲み上げる。だが江戸では少し違った。江戸は埋立地であるため、地下水は飲料水として使用することが困難であった。こうした背景から整備されたのが川から水を引いてくる「上水施設」であった。所々に木の水道管(木桶、木通)が設置されており、このような水道管から引いた水は貯蔵所(汐留)などに貯蔵されて使用された。
-当時の江戸市内の水道管の総延長は150キロに達している。ただし、江戸時代の水道はタダではなかった。身分によって水道料金が設定された。武家の場合は石高によって水道料金が差別的に設定された。その他、商人など普通の身分の場合は各自が居住する住宅の大きさによって水道料金が設定されている(当時の居住地住宅の大きさ一間あたりの水道料金は11文)。
-現在の基準にしてみると中間サイズのマンションの場合、現在の金額価値で約400円の料金が策定されている。ところで、この料金は月間単位ではなく年間単位だった。1年に1度だけ納付すれば済むことだった。江戸の普通の日本人は年に400円しか支払わずに便利な上水道を自由に使うことができていた。
-当時の英国ロンドンの水道は週に3日、1日7時間だけ給水され、日本の江戸では1日24時間年中給水されていた。




15世紀に日本に派遣されて帰国した朝鮮人の報告書

1428年12月、使臣として日本に派遣され、1429年12月に帰国した「パク・ソセン(正三品大司成の職位)」という人物が世宗大王に提出した「日本関連の報告書」の一部の内容。

1)水車を使用する場合が朝鮮にはなく、一行に原理を把握させた所、日本の水車は水の落ちる力を活用して水車を自然に回転させることで水を汲み上げ、田畑へ水を供給しているといいます。韓国の川は流れが弱いですが、日本がやるように水車を作り、足で踏んで水を汲み上げれば釣瓶を使用するよりも人力を大幅に減らすことが出来るはずです。日本の水車の様子を絵にしてきたので、そのまま作って使っていただければと思います。

2)私たちが綿布や穀物などを主に物々交換するのとは異なり、日本は硬貨を一般に使っていますので、遠くへ旅する人でも食料を持参せずに硬貨だけを腰に付けて旅に出ます。また、道沿いには旅行者が寝泊まりできる施設(旅館)があり、旅人を客として迎えてくれます。旅館の主人は旅人から受け取った硬貨に相当する価値の分、便宜を図ります。川辺に住む住民は船をつないで橋を作り、橋を渡る人々からお金を貰い、生活費として使って、橋を補修する費用にも使っています。日本は土地税から通行料にいたるまで全て硬貨を使用することが習慣化され、定着し、重い荷物を持参して遠出する手間が必要ありません。

3)家々ごとに浴室があり、町には銭湯もあり、住民は銭湯を利用する際にお金を払って便利に利用しています。私たちも済生院、恵民局など、医療機関や人の多く通っている廣通橋と地方の診療所に浴室を設置し、人々の体も清潔にしてお金を使う方法も学べるようにしたらよいと思います。

4)日本の商店街は商人たちそれぞれが自分の商店に看板をかけ、陳列台を作ってその上に商品を陳列し、客は商品を確認しながら便利に選んで買うことが出来ました。並べられた商品は客の身分の貴賎に関わらず誰でも自由に買えました。私たち朝鮮の市場は、乾いた物と濡れた物を区別して陳列することもなく、魚や肉類、野菜などはすべて地面にそのまま置いて売っており、通行人が商品の上に座ったり踏んで通り過ぎることもあります。これからは鍾路から廣橋までにある商店に陳列台を設置して商品名を付けることによって、どの陳列台にどの商品があるかが簡単に調べられるよう表示し、客が商品を目で見て買えるようにしなければなりません。

世宗46巻 11年(1429年 宣徳4年)12月3日 乙亥

趙甲濟ドットコム「日本 에도(江戶)가 수립한 世界記錄 중 몇 가지(日本の江戸が樹立した世界記録のいくつか)」より


シュリーマンって日本に来てたんですね。知りませんでした。紀行文は日本語訳が出ているようです。

江戸当時は読み書きだけでなく、算術に関する知識欲が旺盛な人も沢山いたようで「塵劫記」という算術入門書がベストセラーになっていたんだそうですよ。
こうして素地(土壌)が整えられ、種が蒔かれ、収穫されてきたんでしょう。今後の課題として、収穫の後は次代の土壌を整えたり、種まきや水撒きが必要ということです。

*1:山あいの農村部や里の事と思われる。