日本と韓国の時代認識の違い...コロナはどう記憶されるのか、な話

日本と韓国の「時代認識」の違いに関するコラムを紹介します。
日本は「戦前」「戦後」という区切りを除けは、ほとんどを「自然災害」と結び付けて記憶し思い起こす。一方、韓国は「市民の堂々とした集団行動」により「民主主義を成就してきた過程」として「名誉なこと」として認識し記憶する、としています。

記事の大半はこの事例をツラツラと書いています。特に韓国人向けに書かれたものなので、日本に関しての事例ばかりなんですが、割と的を得ているのではないかと思います。全部では無いにせよ、ある側面としては納得できる部分があります。
そして最後に、「コロナ」がどう記憶されるかについて言及しています。
著者は日本は「大型災難を力を合わせて克服した事例」として、韓国は「政治的な勝利であり、社会的な成就」として認識するのではないかと指摘していて、ハッとさせられました。
まさにコロナ禍の真っ只中のときから韓国が「K-防疫」にこだわり続け、政府予算を使って広報までしていた理由が分かった気がしました。

 



韓国日報の記事からです。

韓国と日本の異なる「時代認識」方法


4·19革命(1960年)、5·18民主化運動(1980年)、6·29民主化宣言(1987年)、ろうそく集会(2016~2017年)などは、解放後の韓国社会で時代の変化を象徴する重要な事件だ。韓国戦争(1950~1953年)やIMF事態(1997年)など困難な記憶を思い出させる事件もあるが、やはり民主主義を求めた市民の堂々とした集団行動、そしてその結果迎えた政治的変化を現代史の重要な転機として位置づけるのが韓国人の気質に合っているようだ。

◇韓国と日本の異なる時代認識方式

では、日本社会はどうやって同時代を認識し、記憶するのだろうか?日本現代史で最も大きな事件はやはり敗戦だ。帝国主義の野心から始まった第1、2次世界大戦への参戦、そしてアメリカの原爆投下後の無条件降伏宣言(1945年)を基点に、日本では「戦前」と「戦後」に時代を区分する。韓国で「解放前」と「解放後」が全く違う世の中であるように、日本でも敗戦は社会の方向性と価値を根こそぎ変えた転換点だった。ところが、この敗戦を除いて日本の現代史を区分する重要な基点が自然災害あるいは社会的な災難と連結されているという点が興味深い。例えば、関東大震災(1923年、M8以上推定)、阪神大震災(1995年、M7.3)、東日本大震災(2011年、M9)の3度のメガトン級地震を除いては、日本の現代史を論じることはできないだろう。

(中略)

このように見れば、韓国人と日本人が現代史を認識する方式が本当に違うということを改めて感じる。韓国人は民主化運動や民主化宣言など進取的で名誉な事件で、解放後の現代史を記憶し記録する。韓国の現代史は「民主主義を成就してきた過程」だ。反面、日本人は大地震や経済危機、テロなど大きな困難や災難などを通じて過去を召還し、時代を記憶し記録する。日本人にとって彼らの現代史は「災難と困難を一つ一つ克服してきた過程」と認識される。

(中略)

日本では半世紀に一度は必ず発生するというメガトン級大震災まではいかなくても、熊本地震(2016年、M7.3)、大阪北部地震(2018年、M6.1)、北海道胆振東部地震(2018年、M6.7)など、ここ10年余りでかなり大きな地震が何度も起きている。地震に徹底的に備えたインフラがあったとしても、他国であれば天文学的な被害が発生したかもしれない規模の地震だ。地震だけでなく火山噴火や豪雨など地震以外の自然災害も頻繁で、「災害大国」という自嘲的な表現があるほどだ。

(中略)

地震や大規模災害が発生すれば、数多くの日本市民は自ら乗り出して隣人を助け、問題を克服できるよう知恵を集める。例えば、平成28年熊本地震は、初めて大きな揺れを感じた4月14日以降、1カ月近く400回を超える余震が続き、かなり大きな被害を与えた。死者が270人余り、避難民が18万人に達し、被害を受けた地域も広範囲だった。地震の規模は2011年の東日本大震災に比べるものではなかったが、かなり深刻な被害が発生した。地震直後から熊本近くにボランティアセンターが設置された。避難所運営を支援するために両腕を歩いた大学生と主婦、被害地域の状況を直接取材し、リアルタイムで伝える市民動画部隊など自発的な市民の活躍が絶えなかった。その後、日本の内閣府で集計したところによると、熊本地震当時、全国から集まったボランティアが11万人を超える。以前から日本では自然災害が起きれば市民が自発的に復旧、支援に力を貸す文化があった。 自然災害と関連した非営利団体に医療、福祉、通信などの専門家が積極的に参加しており、市民団体や自治体、行政機関も積極的に連携している。政治参加に積極的な韓国人には、日本の市民社会が相対的に社会問題に無関心なように見える。だが、「災難共同体」という観点から見れば、日本市民は献身的な市民意識を発揮する積極的な実践家といえるのだ。

数年間引きずってきたグローバルパンデミックがいよいよ終わりつつある。新型コロナウイルス感染症の事態は全世界が共に経験した社会的災難だった。この経験が韓国と日本のそれぞれの社会でどのように召喚されるのか?もしかしたら、韓国社会はこれを政治的な勝利であり、社会的な成就と認識するかもしれない。反面、日本社会は大震災と変わらない大型災難を力を合わせて克服した事例として記憶するような気もする。

(後略)



韓国日報「한국과 일본의 서로 다른 '시대 인식' 방법(韓国と日本の異なる「時代認識」方法)」より一部抜粋

日本にも安保闘争とかありましたし、区分のチャネルを政治史や犯罪史に合わせれば、いくらでも「時代認識」の方法を変えることは可能です。
しかし、「コロナ」が自然災害と似ているという意味では著者の指摘は面白いと思います。