「日本悪」の神話作りのために数字を盛る話

日帝」絡みで韓国が主張する「犠牲者」の数に歴史的検証に耐えうる根拠が無い場合が多い、とはご存知かと思います。
例えば「慰安婦20万人説」や「徴用工80万人説」、「関東大震災朝鮮人虐〇6000人説」などなど。細かく見ていけば他にもあるでしょうが、よく知られた代表的なのはこのあたりでしょうか。

このように犠牲者を「盛った」事例として東学農民運動(甲午農民戦争)の日本軍による犠牲者数についてのコラムがありましたので紹介します。先日の「韓国近現代史は日本を『悪』とした神話を作っている」というコラムと共通点のあるテーマとなっています。

 



ペンアンドマイクの記事からです。

[キム・ムンハクコラム]「朝鮮独立運動血史」の欠陥分析


日帝の極悪非道なイメージ作り」は古くから韓国近代史の記述、認識の一種の「神話作り」として定着してきた。特に歴史記述において正確で緻密な数値が求められるにも関わらず、数字を盛ったり弄ったりしたことはイ・ヨンフン教授が指摘するように「韓国の非先進国性」を表している。

ところが、筆者が資料を読みながら見つけたのはこのような「日帝悪」のイメージ、神話作りで数字を盛ることは今だけに限ったことではないということだ。

1920年代に上海で出版されたパク・ウンシクの名著「朝鮮独立運動血史」にも数字を盛る致命的な欠陥が存在している。パク・ウンシク(1859~1925)は近代朝鮮の啓蒙運動の指導的な思想家、歴史家、政治家として筆者が好きな民族人物の一人だ。1911年に中国に亡命し歴史研究、独立運動に従事し、1925年にイ・スンマンの後任として上海臨時政府の第3代大統領に就任したが、健康の悪化で同年11月に上海で67歳の生涯を終える。

(中略)

翻訳者のカン・ドクサン教授は朝鮮近代史研究者として知られている人物だ。彼はこの本の解説で「著者パク・ウンシクが書いた中国文には必ずしも原点に忠実ではない創作された部分があった。それは過大な形容詞でもあり、激しく憤り嘆く文章として現れたりもした」と著作の欠陥を指摘している。

ところが筆者は、これよりもパク・ウンシクの「血史」に数字を盛っていることの欠陥が存在することを指摘したい。その部分を下に記してみる。

東学党は鎌や鋤などの農具を武器に農民が蜂起し、韓国の官軍や日本軍と交戦、9ヵ月以上にわたって死者は30万人余りに達した未曾有の惨状となった(16p)。」

(中略)

1890年代、朝鮮後期の官軍と言ってもその数は1000人単位で分けられていた。ただし、朝鮮独自の官軍というのはせいぜい武装警察程度の水準だったので、ここでいう「官軍」とは宗主国清国の軍隊だろう。内乱と外患などの紛争が発生したとき朝鮮はずっと清国に依頼して解決してきたのだ。

東学党の時期、清国は日本に無通告で出兵し、これに日本も出兵した。日清両国が朝鮮に出兵する際には互いに通告することを約束した天津条約に違反したことにより、日本は清国と開戦したものであり、東学党農民軍と交戦したことはほとんどなかった。また、甲午戦争前夜の日本軍は公使館護衛で二個小隊しか朝鮮に配置しなかった。

東学党の死亡者が「30万人余り」だとすれば、その規模の死亡者を出すためには少なくとも100万以上の軍隊が必要なのが軍事的常識だ。そして当時、朝鮮半島全体の人口が1千万にもならなかったので、それほどに死者を出そうとすれば東学党以外の市民も虐〇しなければ計算が合わない。

たった2つの小隊の日本軍が、いくら一人で百人に当たったとしても、それだけは東学党軍に対抗するのは岩に卵をぶつけることではないだろうか。したがって明らかなことは虐〇に加担した主力は日本軍ではないということだ。

その上、死亡者が30万人余りという数字はまさに荒唐無稽な数字で、パク・ウンシクが何を根拠にこの数字を出したのかも明らかにしていない。

(中略)

もちろん、日本軍と東学党との小規模戦はあったが日本の目的はあくまで清国だった。そして大規模な本格戦争である日清戦争でも、日本軍の死亡者は8395人に過ぎなかったので30万の東学党死亡者はデタラメな数字だ。その後、朝鮮の「義兵闘争」と呼ばれた抗日闘争でも死亡者は千ないし万単位にとどまった。



ペンアンドマイク「[김문학 칼럼] '조선독립운동혈사'의 결함분석([キム・ムンハクコラム]「朝鮮独立運動血史」の欠陥分析)」より一部抜粋

最新の研究(?)では日本軍による犠牲者数は2~3万人に落ち着いているらしいですよ。
それでも不思議なことに記事になるのは「日本軍」による犠牲者の話ばかりで「清軍」による犠牲者の話は出てこないことです。東学党を実際に制圧したのはほとんどが清軍で、日本軍が本格的に進駐したときには既に事態はある程度落ち着いていました。日本軍はあくまで「残党」との小競り合いであったというのに、そちらの犠牲者の方がフォーカスされやすいんですよね。

それは恐らく、東学農民運動自体を「抗日運動」と結びつけて都合よく解釈したいのと、「残党狩り」で行われる行為のイメージが「日本悪」の神話とすごく親和性が高いからではないかと思います(神話なだけに)。
「残党狩り」というと追い詰めて追い詰めて「皆〇し」のように、すでに優位にある者が敗者を残虐非道なやり方で徹底的に叩きのめす構図になるわけで、とても都合がいいんだろうなと、そんな風に感じました。