朝鮮近代化改革の障害は「旧態依然として儒教理念に固執した守旧派グループ」という話

1876年、日本と朝鮮が修好条約を結んだとき、朝鮮には近代化のチャンスがありました。もしかしたら自力での近代化の最初で最後のチャンスだったかもしれません。
このチャンスは活かされませんでしたが、障害となったものは一体何だったのか、というのが今日紹介するコラムの趣旨です。

 



ペンアンドマイクの記事からです。

[キム・ムンハクコラム]朝鮮近代化改革の障害は誰だったのか


(前略)

日本にまつわる近代化史を評価するにあたり、併合に至るまでの日本に抵抗した勢力は旧態依然として儒教理念に固執し、朝鮮王朝に忠誠を尽くして近代化改革に抵抗した「官制グループ」であることを指摘せざるを得ない。そのため朝鮮の近代は開化派と守旧派官制グループの対立・闘争という構図で表れる。

1876年の朝日修好条約(江華島条約)の締結で朝鮮は世界と接触し、国際社会の一員になる契機となる。鎖国を解いた朝鮮近代の第一歩だったと評価しなければならない。

開国によって朝鮮政府は日本、清国に使節、留学生、視察団などを積極的に派遣し、世界と接触し始める。その実例を以下にいくつか挙げてみよう。

1876年5月、金基洙を正使とする第1次修身使を日本に派遣、1880年7月、金弘集を正使とする第2次修身使を日本に派遣、1881年5月、魚允中など62人の紳士遊覧団を日本に派遣し、そのうち3人が日本留学生となる。

(中略)

そのうち金基洙は帰国後「日本見聞記」を書き、金弘集は清国駐在の日本公使書記官・黄俊憲の著作『朝鮮策略』を贈呈され、朝鮮に帰国した。魚允中は帰国後に日本と清国の見聞体験記「中東記」を執筆した。

彼らが執筆した本は明治維新を経た日本で近代化と富国強兵が非常に迅速かつ効果的に推進される様相を正確に伝えていた。そして金弘集が持って帰った「朝鮮策略」は朝鮮に対する脅威は南に侵略するロシアであり、朝鮮は当然「親清国、結日本、連米国」の策を採らなければならないと力説した。そのため欧米諸国と外交関係を結んで通商を行い、技術導入、産業貿易の振興を図るとともに富国強兵策を推進させなければならないと訴えた。

(中略)

しかし守旧派官制グループの必死の抵抗を受けた。朝鮮王室を還元させ、儒教の理念で衛正斥邪を主張した官制グループの抵抗は侮れなかった。そして閔氏政権は「朝鮮策略」をコピーし、全国の儒生に配布した。時代の流れを知らせ、開国、開化政策の必要性を悟らせるためだった。しかし逆効果をもたらし、官制グループはさらに激しく反発した。

(中略)

もちろん、彼らの主張にも一理あった。外国との通商は外国依存を招く、従って外国学問では無く自力で富国強兵を成し遂げなければならないとした。しかし、いくら堂々と叫んでも時代の流れに背を向けた頑固な「衛正斥邪論」に過ぎなかった。

この頃、開化に反対した儒学徒と大院君勢力の政治家たちが手を握ってクーデターをして失敗した事件が起きた。高宗を廃し、庶子のイ・ジェソンを国王に推戴しようとした。閔氏政権は関係者30人余りを〇刑に処したため、儒学徒と大院君派の反対はさらに激しくなった。

一方、1881年に開化派官僚の主導で官制の一部を近代的に改編する改革を行い統理機務衛門を設立した。日本人教官を雇って近代的軍隊養成にも軍制改革にも着手した。閔氏政権の勢力図政治、腐敗性は彼らの開国、開化に主体性がないと守旧派官制グループは反対しており、近代改革は常に内部の官制グループによって障害物にぶつかった。時代は守旧グループを退ける新型の開花派を呼んでいた。



ペンアンドマイク「[김문학 칼럼] 조선근대화 개혁의 걸림돌은 누구였나([キム・ムンハクコラム]朝鮮近代化改革の障害は誰だったのか)」より一部抜粋

近代改革の障害が誰だったのか、著者は「守旧派アンシャン・レジーム)」と見ているようです。

しかし、果たしてそれだけだったのでしょうか?高宗の、開化派と守旧派の対立を御しきれなかった指導力不足はもちろんですけれど、開化派にも問題があったように思える部分があります。
指導的立場にいる人たちは開化派、守旧派どちらも儒教思想が根底にある「知識層」だったはずです。
朝鮮において「知識層」という人たちは一様に肉体労働を「下」に見る傾向にあります。つまり実働を軽んじるということです。
朝鮮の知識層は改革事業の実働部分をすべて「アウトソーシング」で行い、自分たちは「成果物」を受け取るだけという形で進めたのではないかと思えるんですよね。それじゃ現場の掌握は出来なかったでしょうし、人も育たなかったでしょう。

金弘集が黄俊憲に「朝鮮策略」を託されたのには英国も絡んでいました。ロシアを警戒していた英国はたびたび朝鮮に忠告するも耳を貸さないので、清を通じて忠告するよう一計を講じました。この辺りの流れは以前にバンダーさんがコラムで書かれていたのを紹介していますので、そちらもよければお読みください。

金弘集が持ち帰った「朝鮮策略」に高宗は関心を示しましたが、当時の官僚や朝鮮の知識人たちはこれを受け入れませんでした。
結局、1896年に高宗はロシア公館に逃げ込み、そこで金弘集を「逆賊」と認定。金弘集は「大逆人」として光化門で処刑されました。

金弘集が第2次修身使として日本を訪れ「朝鮮策略」を受け取ったのが1880年。そこから処刑されるまで16年です。
改革事業をアウトソーシングして成果物を受け取るだけで終わらず、同時に十分な人材育成が行われていればまた結果は違っていたかもしれません。


ところで「外国学問では無く自力で富国強兵を成し遂げなければならない」との主張は、ついこの前「脱日本」「国産化」を叫んでいた姿と重なるものがあるように感じます。