ありがとう平成 ようこそ令和

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ありがとう平成 よろしく令和

元号に変わることは慶事でありますが、過ごし方は人それぞれです。

雨の中、皇居前で陛下の天皇としての最後のお言葉をスマホ画面を通して受け止めた人たちが沢山いました。
渋谷の中継カメラに向かって「ありがとう平成」と紙に掲げている人もいました。
中継のことを知らず、あるいは改元について特に意識していないという人も沢山いると思います。

それはぞれで全く構わないと思います。
いつもと変わらず過ごせる、というのはとても幸せなことです。

多くの人たちから感謝と尊敬の念を持って退位を祝われるのは、今上陛下が長い間「象徴」の意味を模索し「国民に寄り添う」というあり方を追求してこられた結果としてあるのだと思います。

ご発言や行動に様々な制限がある中で、ご自分にできることを真摯に考え続けてこられたわけで、並々ならぬご苦労がおありになったことと思います。


私の母の話ですが、実は天皇という存在についてあまり関心がなかった…というか、はっきり言ってしまうと否定的だったのだそうです。

数年前にポツリとこぼしたのを聞いたときは驚きました。
そんな素振りを見せたことが無かったからです。


ですが、母の世代を考えれば、その方が自然なのかもしれません。

母は、戦後間もなくの生まれです。
「罪悪史観」を植え付けられた世代です。
戦争は日本の皇国史観による悪行であり、敗戦は罰である、というような罪悪感を徹底的に植え付けられたわけです。


加えて、母の家系は沖縄です。
生まれも育ちも本州ですが、両親(私の祖父母)は沖縄の育ちですし、今のように人の行き来が活発な時代ではありませんから、どこか「よそもの」という意識があったようです。

延々と受け継がれてきた天皇という存在も、1879年に併合されたばかりの新参者の日本人としては、どこか他人事のような印象を持ってしまっても仕方がない背景がありました。
※妙な誤解をされると嫌なので断っておきますが、母は「沖縄独立」とか言い出す人間ではありません。むしろその手の考えを嫌悪しています。
 日本大好きです。
 琉球舞踊に興味があったり、文化として沖縄を好いてはいますが自分は紛れもなく日本人と思っていますし、「沖縄は日本」が前提の考えの人です。


そんな母が趣旨替えをしたのは、今上天皇皇后両陛下による被災地の慰問活動を見た時だったそうです。

特に印象に残っているのは、母も母の実家も被災した1995年の阪神・淡路大震災のときのようです。

幸い避難所の世話にはならずに済みましたし、知り合いに死傷者は出ませんでした。 でも、ライフラインは断絶され、物資もろくに手に入らず、かなり大変でした。
もちろん避難所での生活を余儀なくされた人たちよりはずっとマシでしたが、それでも心細かったはずです。

水と電気はすぐ復旧しましたが、ガスは中々復旧しませんでした。
真冬の一番寒い時期です。
今のようにIHなんて無い時代でしたから、食事の準備一つでも大変だったようです。


そんな折りに両陛下が避難所を訪れ、膝を付いて被災者と同じ目線で話されたという報道は、ギリギリの所で踏ん張っていた母を間違いなく励ましたのだろうと思います。

多くは語りませんでしたが、数年前に話を聞いた時に「こんな人たちなら居ていただいていいな、と思った」と言っていました。


陛下が象徴天皇の務めとして実践されてきた「国民に寄り添う」という行為は、間違いなく母のような人たちを癒やし励ましてきたのだろうと思います。

そうした陛下の大きな優しさに気付けたからこそ、感謝の気持ちを抱いて清々しく「平成」を見送ることができます。


ありがとう平成。