日本による「朝鮮併合」が無血で行えたのは「お金」のため...「国を売って楽しい人生を送った人たち」の話

日本による併合は軍事介入なしで行われました。一部の韓国世論は日本が軍事制圧したと思っている節がありますけれども、実際は違います。

どうしてそれが可能だったのかというと、大韓帝国皇帝にすべての権限が集中している状態で、その皇帝自身の望みが「生活の安泰」であり「財産の保証」でしかなかったからです。
また併合後、大した抵抗が起こらなかった理由も「お金」でした。当時の大韓帝国は経済破綻していましたから大体のことは「お金」で解決できてしまったようです。
そのあたりの詳しい流れや、併合後、高宗や純宗がどういった暮らしぶりであったかを説明したコラムがあったので紹介します。

 



ペンアンドマイクの記事からです。

[キム・ヨンサムコラム]巨額の歳費で国を売って楽しい人生を送った大韓帝国皇帝と高官たち


韓日併合派日本政府の構想通りあまりにも平和的に行われた

英国がムガル帝国を崩壊させインドを植民地にするのに100年以上かかった。フランスは朝鮮より人口がやや少なかったアンナム(ベトナム)を植民地にするのに数十年の歳月が必要だった。1910年8月、日本の大韓帝国併合が発表されると全世界は衝撃を受けた。それもそのはず人口2000万人近い人口と自ら「帝国」を宣言した500年余りの歴史を受け継いできた王朝が銃一発撃つことができず条約によって主権を譲り他国の植民地に転落したのは世界史で類例のない一大事件だったためだ。

初代朝鮮総督である寺内正毅の側近だった小松録統監府外事局長は「韓国併合は軍人一人動かず、血一滴流さず成し遂げた」と自画自賛した。当時、大韓帝国は皇帝が立法・司法・行政はもちろん軍統帥権に至るまで強大な権限を保有したロシアのツァーリ絶対君主制国家だった。もし皇帝が命をかけて最後まで併合に反対したとすれば皇帝を廃位させたり武力を動員して強制占領しない限り併合は不可能な状況だった。

ところで小松の言葉のように実に悲惨なほど虚しく大韓帝国の主権が日本に渡った理由は何だっただろうか?それではその秘密の扉を開いて入ってみよう。

高宗の要求覚書

1905年11月17日、乙巳保護条約が締結され、翌年2月に統監府が開設された。統監府が皇帝の権限を縮小する各種改革を推進すると、高宗は自分の既得権を奪われることを憂慮して統監府に次のような要求覚書を提出した。

まず、皇室費は定額を決めて宮中に一任すること。

第二に、皇室に属する鉱山・紅参事業*1、宮・陵苑所属の土地は宮中(皇帝)が管理すること。

第三に、皇室財政および財産については政府の財政顧問が干渉しないこと。

この要求覚書は分かりやすく言えば、高宗自信が使う金銭と個人財産に対しては絶対手を出すな、という主張だった。しかし伊藤博文統監は大韓帝国政府予算よりはるかに大きな比重を占めていた皇室費を国庫に帰属させなければ何もできないという事実を把握していた。

伊藤統監は高宗の要求を無視して皇室改革を推し進めた。統監府はあちこちに隠されていた高宗皇帝の秘密資金を追跡し、国庫に帰属させた。そして皇帝が勝手に政府財政を持ち込めないよう財政改革を推進した。窮地に追い込まれた高宗は1907年、ハーグ平和会議に密使を派遣し、日本の内政干渉を満天下で暴露することで抵抗した。

事実、日本政府は皇室のあちこちに浸透させた諜報組織を通じて高宗がロシア側とハーグ密使派遣と関連したすべての情報を把握していた。日本政府はハーグ密使事件を通じて高宗が望むものは、勝手に使える秘密資金(皇室費)だという事実を知った。言い換えれば、高宗は自分が自由に使えるお金の問題さえ解決してくれれば大韓帝国の主権がどうなっても構わないということを把握したのだ。

列強の干渉を防ぐために皇室一家買収作成

日本政府は日清戦争で圧勝したにも関わらず三国干渉によって遼東半島を返還しなければならない国家的恥辱を経験した。この過程で西欧列強の外交的介入がどれほど恐ろしい結果をもたらすかを痛切に体験した。

大韓帝国併合を準備する過程で最も憂慮したのは西欧列強の介入の可能性だった。高宗や大韓帝国指導部が併合に抵抗すれば彼らを武力で鎮圧せざるを得なくなる。このような混乱が起きれば西欧列強が介入してとんでもない結果をもたらす可能性もあったためだ。

無理なく併合を達成するためには軍事力を動員した強制占領や簒奪ではなく、国際的合意(条約)形式で推進するのが最善だった。このためには条約締結権を持つ皇室とその一族を手厚く礼遇することで懐柔策を動員するのが最善だと判断した。皇帝一族を金で焼いて煮ることが最も安全で賢明な方法だったという意味だ。また日本が亡国君主をどのように扱うかは指導層や知識人階級を日本側に引き入れる上で重要な要素でもあった。

1910年7月8日、日本の閣議大韓帝国皇室を廃止し、彼らを朝鮮王皇族に編入させた後、毎年歳費として150万円を支給することにした。当時、日本総理の年俸が1万2千円、日本の皇族の1年の歳費が4万~10万円(1927年には11皇族全体の年間歳費80万円)に過ぎなかった。これに比べると朝鮮王公族に対する礼遇は実に破格の巨額であった。

1910年7月28日、第3代統監寺内正毅が上記の内容が整理された併合計画書を持って京城(ソウル)に到着した。それから一週間後の8月4日、統監部外事局長の小松録と李完用総理の秘書が合併交渉を始めた。

コマツは李仁直にフランスがマダガスカルを併合する際、国王を離島に追放した事例、米国がハワイを併合した後、国王を市民に格下げさせた事例など殺伐とした欧米の植民地政策を説明した。彼は日本政府が大韓帝国皇室を日本皇族の一員として受け入れ、日本皇族に準ずる破格の待遇を約束した。また、内閣大臣らに爵位を授与し、世襲財産を提供するという日本閣議決定を通知した。

これを担保するために併合条約第3条に「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下およびその後妃および後裔をそれぞれ地位に相応する尊称威厳および名誉を享有させ、またこれを維持するのに十分な歳費を供給することを約定する」と明文化した。

純宗即位四周年記念パーティー

双方の合意により併合条約は1910年8月22日に締結し、公表は8月25日に行うことが決定された。ところが大韓帝国側から突然公表日を8月29日に延期するよう要請してきた。大韓帝国の亡国過程を追跡し記録として残した中国知識人の梁啓超はその理由を次のように明らかにした。

「合併条約は8月16日に寺内正毅李完用の議論決定を経ており、17日に寺内がその結果を日本政府に電報で通知した。25日に交付することですでに決めている。ところが、韓国政府が突然、その月28日に韓国皇帝(純宗)即位4周年記念会を開き祝賀した後に発表することを要請すると日本は許可した。この日の大宴会で臣下たちが集まって普段通り楽しみ、日本統監もやはり外国使臣の例に従ってその中で祝い喜んだ。世界各国の者たちは韓国君臣たちの達観な姿に驚かずにはいられなかった」

1910年8月29日、純宗皇帝は併合と関連して民衆に次のような詔勅を発表した。

「あなた方高低役人と民は国の形成と現在の状態を深く察して騒ぎたてず、自分の職業に定着して大日本帝国の文明的な新政治に服従し、幸せを共に受けるようにしなさい。今日の措置はあなた方民衆を忘れているからではなく、民衆を救おうとする至極の意味から出たものであり、官吏と民は私の意思を身をもって知るだろう」

王公族に莫大な歳費支援

韓日併合は日本政府の構想通り、あまりにも平和的に行われた。主権を喪失した大韓帝国は名称が朝鮮に変わり、1907年にハーグ密使派遣の後の混乱で廃位となった高宗皇帝は徳寿宮の太王に、純宗皇帝は昌徳宮の李王に格上げされた。日本政府は約束通り皇帝直系の家族4人(純宗と純宗妃ユン氏、高宗と皇太子イ・ウン)を王族に任命した。

そして皇帝の傍系親族(純宗の弟、義親王イ・ガンと夫人のキム氏、高宗の兄である興親王イ・ヒ)を公族として朝鮮王公族を構成し、日本皇族の一員として受け入れた。朝鮮王公族の私有財産管理および生活を支援するため朝鮮総督府傘下に李王職という公式部署も新設された。

日本は朝鮮王公族の礼遇のために毎年歳費を支給した。その額は1911~1920年までは年間150万円、1921年からは年間180万円だった。歳費150万円は現在の貨幣価値にすると300億ウォンを超える規模だった。1911年から1913年まで朝鮮総督府の年間予算が5047万円だった。総督府は予算の2.9%を王公族に指定された高宗・純宗およびその一家の安らかな引退生活のために惜しみなく支出したのだ。

朝鮮王公族の財産は日本政府が提供する歳費だけではなかった。もともと所有していた大韓帝国皇室所有の各種財産と日本政府恩賜金、王公族という特殊地位のおかげで彼らの富は日々増えていった。

1930年の李王家財産規模は有価証券が60万7778円、不動産772万6091円だった。李王職が管理した田畑は1億5000万坪で韓半島全体の水田面積の5%に該当した。ここからの収入はすべて王公族に渡った。おかげで日本の皇族も朝鮮王公族の財産を羨むほど莫大な財産を所有した大富豪になる。

日本政府は併合を記念して臨時恩賜公債3000万円を朝鮮に寄付した。この金額を米ドルに換算すると1500万ドル、6000億ウォンに当たる巨額だ。日本が朝鮮に寄付した恩賜金は米国がフィリピンに対する権利を譲り受けるためにスペインに支払った2000万ドルの4分の3に当たる。米国が提供したお金はスペイン政府に渡ったが、日本政府の恩賜金は朝鮮民に渡された。

では恩賜金3000万円はどのような用途で誰に提供されたのだろうか?

高官に爵位と恩賜金をばらまき

日本政府は1910年10月7日、大韓帝国皇室の親族および官僚に対する礼遇のために朝鮮貴族制度を創設した。大韓帝国の高官76人に爵位(侯爵6人、伯爵3人、子爵22人、男爵45人)を与え、日本の華族を同じ礼遇を保障した。このうちユン・ヨング、ホン・スンヨン、ハン・ギュソル、ユ・ギルジュン、ミン・ヨンダル、チュ・ギョンホら6人は貴族爵位を返上し、併合後実際に朝鮮貴族に任命された者は68人だった。

併合に協力することで朝鮮貴族爵位を受けた公室親族および旧韓国官吏3683人は天皇から巨額の恩賜金を受け取り安らかな生活を楽しむことが出来るようになった。貴族爵位を受けた者の中でも最高額の恩賜金を受け取った者は興宣大院君の長男(高宗の実兄)イ・ジェミョンだ。宮内大臣として併合条約締結に参加した見返りとして83万円(約166億ウォン)を受け取った。息子のイ・ジュンヨンも16万3000円(約32億6000万ウォン)の恩賜金を受け取った。

朱子性理学の国らしく国が滅びたのなら儒林たちもそれに相応しい抵抗をするのが道理ではないか。儒林たちが併合に反発する兆しを見せると総督府は徳望があり年配の両班儒生3150人に恩賜金をバラまいた。おかげで「忠臣不事二君」と叫びながら命など些細なものと思い抵抗することを誇りに思っていた儒生たちは静かに併合を受け入れ日本統治に順応した。

また、他の模範となった孝子と節婦(3290人)、貧窮した男やもめ・孤児・独身者(7万902人)にも恩賜金がバラまかれた。残った金額は失業者と貧困者救済、朝鮮人教育、そして凶作対策資金として分配された。

高宗と純宗は日本政府の「皇室に対する寛大な礼遇」提案に満足し、すなわち一族に対する身分保障および金銭を対価として統治権を日本天皇に「完全かつ永久に」譲渡した。大臣たちも貴族爵位および巨額の恩賜金に買収され併合に抵抗せず、儒林および民も日本天皇が下した恩賜金を受け取って口を閉ざした。これが日本が「軍人一人動かさず、血一滴流さず」併合を達成した本当の理由だ。

それでは統治権を日本の天皇に「完全に、永久に」譲渡した高宗・純宗は亡国後、どのような人生を送ったのだろうか?

子供を作るのに忙しかった亡国君主高宗

統監府設置後、伊藤博文統監は大韓帝国の皇室生活を統括する機構である宮内部が極度に肥大化している事実を発見した。彼は宮廷経費の節約御為に宮殿内で4400人を大量解雇した。それにも関わらず1909年に宮内部には勅任官33人、主任官76人、判任官229人、女官と内侍が4000人もいた。

併合後、朝鮮総督府は高宗と純宗が居住する徳寿宮・昌徳宮の女官と内侍の定員を2500人に削減する方針をたて1920年までに1450人を大量解雇した。太王に身分が格下げされた高宗は徳寿宮でのんびりと過ごしていたところ1911年7月20日、後妻のオム尚官が亡くなると「夜の自由」を満喫し始めた。

1912年、徳寿宮の焼厨房の内人(料理調理担当の女官)ヤンさんが高宗の娘「徳恵翁主」を生んだ。高宗が還暦を過ぎた61歳で出来た子だったからか、徳恵翁主は少女時代から統合失調症精神分裂病、schizophrenia)症状を見せ始め、一生そのような状態で生きるため周囲の人々が苦労しなければならなかった。

高宗の女官同寝パレードはその後、次第に激しさを増す。次は「ムスリ*2」と呼ばれる洗手場の内人を妊娠させ1914年7月3日に息子のイ・ユクを授かった。イ・ユクを生んだムスリは高宗の子を産んだことで光華堂李氏(本名イ・ワンフン)に昇格した。高宗が63歳の時に得た子供だからか、イ・ユクは2歳の時に亡くなった。

その後、高宗の寵愛を独り占めした主人公はムスリの三祝堂金氏(本名キム・オクギ)だった。高宗の寵愛にもかかわらず、三祝堂は子供を産めなかったため今回は同僚の女官・宝賢堂鄭氏を妊娠させ1915年8月20日に息子イ・ウを授かった。イ・ウも生まれて3ヵ月後に亡くなった。

昌徳宮李王に退いた純宗はどのような人生を送ったのだろうか?
併合時までは侍従が左右から支えなければ階段も上り下りできないほど心身が衰えていた純宗は、併合後奇跡のように健康を回復し、性格も快活になった。寺内総監は純宗の健康状態が驚くほど反転した理由を「困難な国史の心配から解放されたため」と記録した。

純宗の趣味はビリヤードとグルメ

純宗の趣味はビリヤードと音楽鑑賞、グルメだった。1912年3月、純宗は日本ビリヤード材料販売業者の日勝亭にビリヤード台を2台注文し、昌徳宮の仁政殿東行閣に設置した。毎日新報の報道によると(1912年3月7日)純宗は毎週月・木曜日をビリヤードの日に決めたが、随時ビリヤード場でビリヤードを楽しんだという。純宗と純貞孝皇后は年齢が20歳差があったが、2人は昌徳宮仁政殿に設置されたビリヤード場でたまにビリヤードをしたりした。

併合3周年を記念して毎日新報が報じた記事(1913年8月29日)によると「(純宗は)玉突き荘(ビリヤード場)に出てボールを打つのにきわめて面白さを感じ、女官たちと一緒にいる。夏には涼しい時に石造殿で清涼な風を受けながら内人たちを連れ話をさせ、蓄音機の音も楽しんでいるそうです」と近況を伝えた。

食事は東京帝国ホテルの初代料理長を務めた吉川兼吉親子が調理するフランス料理を大変楽しみ、ほぼ毎日洋食で食事をした。純宗がフランス料理をあまりに好むと、それに伴う良質の食材供給が問題になった。李王職は日本の宮内省に特別要請して払い下げられた最高級牛を船で運んで飼育し、牛乳と新鮮な肉類、バターを生産、純宗の食事に載せた。

朝鮮日報(1922年12月21日付)が紹介した純宗の日課
午前9時~9時20分 起床
主治医の診察および洗面
漢方薬湯剤の服用
12時 朝食後、午後2時まで政務
午後2時~4時 仁政殿東行閣に行って愉快にボールを打つ
午後4時 茶菓子と沐浴後、本と雑誌の読書
午後7時 夕食
食後、散歩を兼ねて玉突き荘にてボールを打つか、そうでなければ拝従していた臣下に命じてご覧になる
新聞読書
夜11時 就寝

大正天皇肖像画を掛けて生活した純宗

日本政府は純宗を日本陸軍大将として礼遇したが、彼は外出時や儀礼に出席する際はいつも陸軍大将の制服を着用した。これから推測すると、純宗は自分が陸軍大将になったことに大きな誇りを感じたようだ。

純宗は自身に安らかで福福しい人生を提供してくれた大正天皇の恩に報いるために自分の居場所である昌徳宮に大正天皇の人影(肖像画)を掛けて生活した。日本の宮中三大節(紀元節天長節四方拝)の時は必ず大礼服を着て総督官邸を訪れ天皇に祝辞を述べて捧げた。

1917年11月10日、昌徳宮で大火が発生し、主要建物が全焼した。純宗はとっさに災難に遭って避難しながらも、大正天皇と皇后の人影が燃えるのではないかと戦々恐々とした。多くの人の努力にもかかわらず天皇と皇后の人影が燃えると純宗は翌日、李王職職員と警部務職員が立ち会う中で人影の灰を箱に掃き入れ秘苑*3内で最も清浄な土地に奉納した。

李王職の職員たちが純宗に住居を臨時に他に移すよう何度も勧めた。しかし純宗は「天皇陛下から受けた昌徳宮なので動けない」とし、建物が復旧するまで狭い楽善斎で不便を甘受しながら生活した。これが亡国君主たちの美しい日帝体験記だった。



ペンアンドマイク「[김용삼 칼럼] 거액의 세비 받고 나라 팔아 즐거운 인생을 산 대한제국 황제와 고관대작들([キム・ヨンサムコラム]巨額の歳費で国を売って楽しい人生を送った大韓帝国皇帝と高官たち)」より一部抜粋

一部、表現を変えています。特に「隠居」後に高宗の子供が生まれるあたりですが...子供を産むことを「生産(생산)」という言葉で表現してありまして...例えば「イ・ユクを生産したムスリは~」のように。直訳だとちょっと拒否感がある表現だったので無難なものに変えています。

この人のコラムは割と知らなったことを詳しく書いていたりするので知的好奇心という意味では面白いのですけれど、とにかく長いんですよね。
また「コラム」という割に感想や評論に当たる部分がありません。まあ、タイトルから推測するに「国を売り渡した金で余生を楽しく暮らしたやつら」というネガティブな印象は伺えますが。

しかし、著者自身が内容で触れている通り、恩賜金は庶民にも渡っているんですよね。孤児や貧困層、失業者に対して、どのような形であったのかは書かれていませんが、凶作時の対策費にも充てられたことから社会福祉の財源として渡ったのではないでしょうか?
「金で国を売った/買った」は、確かに現代に韓国人の感覚では矜持が傷付くことかもしれませんけれど、国が財政破綻していた当時の大韓帝国として考えると、損した人は居ないのでは?と私などは思ってしまいます。
「500年続いた国家」というのだってあくまで今の感覚であって、当時の大韓皇室が今のような「国家観」を果たして持っていたのかどうか...自身の「財産」にのみ敏感だったのは「国=財産」の認識だったからではないでしょうか?

記事へのコメントが4件付いていました。ペンアンドマイクは保守メディアなので、左派への批判に結びつける意見が主です。

「腐敗したあの皇族と、現在の左派の腐敗した堕落と何が違うだろうか?
 一言で言って吐き気がする」(共感25 非共感2)

「朝鮮王朝は性理学の偽善性を統治理念として民を搾取した政権であり、今現在の韓国進歩左派の偽善と腐敗とも相通じます」(共感23 非共感1)

「庚戌年併合条約文書に李王家の恩給を直接記録しておいて印鑑を押した。歴史に長く残る恥辱的な名前だ。恥を知らせずに日本が合併後の約束を守らないか心配し、併合条約にどうせ太王はいくら、と書いたと思われる。法的責任はもちろん、歴史的責任などすべての責任が同文書に名前を載せた人々にあるのは当然だ」(共感20 非共感0)

「日本が日清戦争日露戦争をしている間、大韓帝国は何をしていたのか?連合して戦うつもりはなく、見物ばかりしていた。韓日併合後、中国で独立運動をすると言いながら駐屯地も無く牛車に炊飯器、米、薪、寝具などを積んでまともな戦闘が出来たのだろうか?
 過去には民が無知だったとしても、現在は高学歴なのに知的水準は最悪」(共感8 非共感0)

革命家やレジスタンスの苦労話が美談となるのは後に苦労が報われるか、もしくは「破滅の美談」が成立する場合のみで、韓国の臨時政府にはどちらもないんですよね。だから必死に抗日義士を発掘してるんでしょうけど。

それにしても、どうしてすぐに今の価値基準で「歴史的責任」を過去に押し付けようとするんでしょう。「今」の大韓民国に不満があって、大韓帝国が続いていれば「こう」じゃなかった...という思いがどこかにあるのでしょうか?



*1:朝鮮人参栽培事業

*2:水汲みの雑用係。

*3:昌徳宮の北東部にある宮苑