地域ごとの自然観が宗教の教義を変質させるか否かの話

自称・西洋かぶれの学者(主に比較宗教史)が書いた東アジアの思想の本を読んでいます。
「東アジア」とひと括りにしてしまうのはどうだろう、と思っていましたが、ちゃんとお国柄についての言及がありますし、「儒教・仏教・道教」がメインであることもあり、中国でどのように混成されたかを俯瞰する、というが狙いの本です。
ざっくばらんな語り口が面白いです。


地域ごとの自然観が教義を変容させるか否か

例えば「生あるもの」と言うとき、日本人は人間や動物だけでなく植物もその中に含めます。
生物と無生物の違いは生命活動を行っているかどうかで区別します。
ですが仏教的な考えでは本来そうではなく、「感情」を持つかどうかで判断します。

では、日本が仏教を受け入れる際に、そうした考え方が教義に変化を与えたのでしょうか。
「宗教は自然認識を変えるか。それとも地域ごとの自然観が宗教思想に変質を強いるのか。」という疑問です。
著者は明確な答えを出せないと言っていますが、私は後者だろうと思います。


日本は「人間を超えた存在を許容しない風土」だからこそ、日本の神様は全知全能ではなくどこか人間臭いのではないかと思うのです。
それぞれの地域で宗教が広がっていく過程において、地域ごとの自然観によるローカライズが少なからず行われると考えるのが自然ではないでしょうか。

その流れの中で、仏教は日本人の自然観を取り入れ「草木国土悉皆成仏(草木も川もみなブッダになる)」となったのでしょう。


世界を主宰する意志の実在を求める

「世界を主宰する意志」という表現が出てきます。
このあたりは西洋かぶれならではと思います。
悪い意味ではなく、的確な表現という意味です。


老子の神格化の流れを追った部分での表現です。
老子変化経」の中に収められた老子の教えの一つに「私は強いものと弱いものを秤にかけ、勝ちと負けを入れ替えよう」というものがあるそうです。

「秤にかける」のは「老子」で、「勝ち負けを入れ替える」のも「老子」です。
「人間の外側」にある意志の介在です。
ここに私は一神教の「神」と非常に近いものを感じます。

世界を主宰する意志=人間の外側(人知を超えた)存在=普遍的な価値(善悪)…とでも言いましょうか。


ですが、中国ではキリスト教は韓国ほど広まりませんでした。
道教が「現世での幸福に執着する」という思想だったことが少なからず影響したと思います。

キリスト教は「魂の救い」の宗教です。乱暴な言い方をすると「死後に救われる」宗教です。現世でご利益はありません。
仏教は現世への執着を絶つべし、とする宗教です。


こうして見ると、「現世至上主義」の道教とはどちらも相容れません。
ですが仏教は、中国へ広まっていく過程で、儒教で最も大事とする「孝」の思想を取り込み、本来の仏教には無かった先祖供養という教義を確立しました。(盂蘭盆会)
そうやってローカライズすることで受け容れられたのです。
キリスト教の救いは「本人のみ」のため、また現世ご利益が無いため広まらなかったと考えることが出来ます。


とすると、韓国でキリスト教が一定数(国民の約3割)にまで信仰される理由も、なにか韓国ならではの事情があるはずですね。
改めて考察してみる必要がありそうです。