2015年11月当時の「日本分析」の話

少し古い記事ですが、2015年11月に朝鮮日報に載ったコラムで、ソウル大学日本研究所に所属する教授(当時)の「日本分析」です。

この時期はちょうどパリ同時多発テ○が起こっていたタイミングで、その背景を「欧州の『極右民族主義』による『異文化』の排除」と定義し、そうした動きは「日本の極右思想と一脈通じる」としています。なかなかトリッキーです。

 



朝鮮日報の記事からです。

[グローバルフォーカス]日本の戦後秩序否定、欧州極右民族主義と通じる


サミュエル·ハンチントンハーバード大学教授は脱冷戦後の世界が「文明の衝突」に点綴されると見た。フランスのパリで起きた今回のテロも、キリスト教文明とイスラム原理主義者の対決と映る。しかし、パリでの自○テロは「文明の衝突」というよりは、イスラム過激主義者による「文明否定」であり「文明破壊行為」である。

(中略)

グローバル化の象徴として地域統合が堅固になった欧州のど真ん中で、このような動きが現れていること自体、人類文明への警鐘だ。テロリストらは、欧州の脱境界や多文化社会、そして脱民族主義を逆利用し、犯罪を犯した。 それに対する反作用で、欧州に右派感情が大きく頭をもたげている。

(中略)

欧州の右翼は国境を越えた統合、人種と宗教を越えた和解、異質的文化との共存を主張する政治勢力などに対抗する。アフリカや中東からの難民流入を拒否し、イスラムを信じる市民を差別し、移民を統制するために国境の壁を高めようと主張する。欧州統合で花を咲かせた脱近代(post-modernism)を拒否し、近代(modernism)への回帰を叫ぶ。右翼の理念は極めて近代的だ。異質な文化に対する優越意識と差別、国境閉鎖による排除的な国民国家再建、開放的共有に対する否定的認識などが敷かれている。

日本の右翼思想の根底にもその根源と主張に違いはあるが、差別と排除、そして相手に対する否定が深く根付いている。 日本の右翼は日本で差別を受ける在日韓国人をむしろ特権階級と決めつけ、「嫌韓流」を造成した。人種や国籍、性別などを理由に相手を非難するヘイトスピーチも厭わない。自分たちが持っていくことができる財貨を二等市民が持っていくという差別意識の現れだ。その一方で、「慰安婦強制動員を認めた河野談話を検証する」とし、談話がまるで政治的妥協の結果であるかのように本質を歪曲し、「日本は過ちを犯した国ではない」と弁明する。自分たちが必要な時は自国民だと動員し、戦争が終わった後は徹底的に排除する右派思想の発現だ。最近では、太平洋戦争戦犯を断罪した東京裁判を批判的に検証すると乗り出した。東京裁判平和憲法は、敗戦した日本に対する報復と復讐として自国を圧迫し締め付ける秩序だったため、戦後体制からの脱却は東京裁判の検証を通じて完了しなければならないという発想だ。改憲を達成するには、日本が悪い国という自虐的史観から脱しなければならないという強迫観念にとらわれ、米国が造成した戦後秩序から脱皮しなければならないと信じる。その考えの根底には日本と米国という近代国家の対決と相互否定が存在する。

欧州と日本の右翼思想は、彼らの正反対側で、これを根本的に否定するISの原理主義とルーツを異にするが、妙に似ている。差別と排除、相手の不正があるだけで、共存と和合、寛容と配慮がない。文明の衝突を擁護するだけで、文明と文明の対話と和解の余地はない。相手の文明に対する対等な価値付与もない。何よりも文明圏を越えた人類普遍の価値に対する尊重が見えてこない。開放と和合、相互尊重と共生こそ、人類文明が作り出した歴史的発展の産物であることを忘れている。日本の右翼も欧州の右翼も見逃しやすい落とし穴だ。



朝鮮日報「[글로벌 포커스] 일본의 전후 질서 부정, 유럽 극우민족주의와 통해([グローバルフォーカス]日本の戦後秩序否定、欧州極右民族主義と通じる)」より一部抜粋

この人の考える「米国が造成した戦後秩序」とは恐らく「日本悪い」です。

それはともかく、「日本極右」という表現は韓国メディアでは呆れるほど多く出てきます。
左派とか右派とか、主張を読んだり聞いたりした後で「らしいな」と感じることは正直ありますけれど、前提としてしまうと先入観を持って色眼鏡で見てしまうので如何なものかと思います。
それこそコラム内で著者自身が述べている「差別と排除」に繋がるのではないでしょうか?「極右性向の人間の言うことだ、差別意識からくる偏狭な意見に過ぎない」と。

 

相互尊重と共生は確かに大事です。そのためには相手を「知る」必要があり、知った上で互いに相容れない部分に関して「居心地の良い距離感」を取ること。私はこれが大事だと思うのですけれど、果たして「排除」に当たるのか?というのが難しいと感じます。
人によってはそれを「差別」と捉えるかもしれませんね。

ただ、なんでもゴチャ混ぜにすることを「平等」とか「共生」とか主張するのは違うのではないか?そう思っています。ゴチャ混ぜにすると単に「差別」が見えにくくなるだけだと思います。

「りんご」が好きな人と「梨」が好きな人が居たとして、どっちが一番か白黒を付ける必要はありませんよね?
自分は「りんご」が好き、自分は「梨」の方が好き、となってもお互いに「ああ、そう。それも良いかもね」と、ある意味無関心(無干渉)で居られることが、私が思う「共生」です。わざわざ関心を払う必要もなく、誰にも干渉されることなく、そこに当たり前としてあれる事です。

ですが「私の好きなりんごの素晴らしさをあなたも理解しなければいけない」と迫るのが「相互尊重」で「共生」だとの考え押し付けようとしてくる人たちがいます。
韓国の主張する「正しい歴史認識」がそれであろうと思うのです。