「マスコミがファクト重視する危険」という主張の話

全体的に「ATAMAおかしいな」と思えたコラムを紹介します。「ATAMAおかしいな」はあくまで私の感想です。人それぞれ感じることは違うでしょうが、私はそう思えてしまいました。あまり好きな表現ではないんですけど。

コラムの大まかな趣旨は「日本メディアは政権批判をしない」が、その理由は「ファクト報道だけを重視するから」というものです。
正直、コレも意味が分からないんですよね。「ファクト重視」と「政権無批判」に因果関係があるのなら、それは政権に「批判しなければならない要素が無いから」じゃないの?となるんですけど。どうもそういうわけではない。それなら「ファクト重視」と「政権無批判」に因果関係が無いので、コラムの前提が崩れます。何が言いたのかよく分からないコラムということになります。
意味が分からなかったので、ここにはこれ以上触れません。ただ、題材として朝日新聞慰安婦報道の記事撤回に触れているので、その部分だけ取り上げたいと思います。

そのまま読むとなかなか支離滅裂です。前提として押さえておいて欲しいのが、著者は「慰安婦強制連行はあった」が大前提の考えです。だからこそ、細かな部分でのファクトチェックが出来ていなかった、それだけのために朝日新聞の報道が誤報となったのは「残念」なんです。
大まかな筋での「強制連行は事実」であるのに、それすら誤報のように扱われてしまった。それは「ファクト重視」の方針のせいであり、一つでもファクトと異なれば全てが誤報とされてしまう危険性がある。「ファクト」よりも「当事者の声」の方が大事だ...こんな感じのことが言いたいのだろうと思います。

 



韓国日報の記事からです。

朝日新聞の残念な「慰安婦記事」誤報認定


(前略)

日本のマスコミの現状を理解するために必ず言及しなければならない事件がある。9年前、朝日新聞慰安婦問題と関連して誤報を認め国民に謝罪したことだ。事案が複雑なためか韓国ではこのことが意外とあまり知られていない。

(中略)

2014年、朝日新聞が驚くべき立場を発表した。いわゆる「慰安婦問題」を報道した過去の記事16件が誤ったファクトに基づいて作成された誤報であり、それに伴いその記事を撤回するという発表だった。記事が掲載された時点は約30年前にさかのぼる。

(中略)

では、朝日新聞はなぜ慰安婦記事を誤報すると判断したのだろうか? 「第3者委員会」まで設けて調査し検証した結果だが、この記事が数十年が過ぎたにもかかわらず撤回を宣言しなければならないほど深刻な捏造だったという主張には同意し難い。重要な取材源だった吉田清治(1913~2000)の主張を客観的に検証しようとする取材が行われなかったというのが表面的な理由だ。吉田は自身が太平洋戦争当時、朝鮮人を強制連行する実務責任者だったと主張し「済州島で200人の若い女性を暴力的に慰安婦に動員した」という内容の本を出した人物だ。1990年代に韓国を訪れ「私が犯した犯罪を謝罪したい」と頭を下げて話題になったこともある。いわゆる「吉田証言」と呼ばれる彼の主張は日本で長い間議論の的だった。

(中略)

◇ ファクトの総和が真実ではない

事実、吉田証言には誇張と脚色が含まれたと見るに値する情況が多い。「狩り」等、原色的な表現で大衆の好奇心を刺激し、インタビュー時期により証言内容にも差がある。労働のために徴発された「女性挺身隊」と戦時〇奴隷を意味する「慰安婦」を混同するなどファクトという観点から見る時には問題視されるほどの証言もあった。しかし、そのため彼の主張全体が虚偽、捏造だという主張は本質的ではない。特に吉田証言がなされた1980~1990年代は戦争が終わってすでに半世紀が過ぎていた。慰安婦問題が初めて水面上に現れたが政府の関連記録は大部分未公開状態だった。質的な資料の重要性を理解する研究者の観点から言えば、そのような状況では歪曲や誇張の可能性があっても当事者の陳述と記憶をたどって当時の脈絡を再構成することが最も重要である。吉田証言の事実かどうかは関係なく、以後強制連行されたという慰安婦被害者の証言があふれ出た。客観的な記録がないからといって彼らの記憶と経験をすべて偽りとして片付けるのか? ファクトの総合が真実ではないのだ。

(中略)

マスコミ報道でファクトの重要性はこれ以上強調する必要はないだろうが、朝日新聞慰安婦報道撤回事件は単にファクトだけを重視する取材と記事作成の危険性を示唆すると思う。

(後略)



韓国日報「아사히 신문의 아쉬운 '위안부 기사' 오보 인정(朝日新聞の残念な「慰安婦記事」誤報認定)」より一部抜粋

「撤回を宣言しなければならないほど深刻な捏造だったという主張には同意し難い」...はぁ?その記事が社会的に与えた影響を考えれば極めて悪質で深刻な誤報でしょう。あんまりこういう言い方好きではないんですが、控えめに言って「ATAMAおかしい」ですね。

そもそも吉田清治の本は「小説」カテゴリで出版されたものです。それを証拠として持ってきて記事にしたのですから問題でしょう。
当時(1980~1990年頃)は公表されていた資料に限界があったためにファクトチェックが十分に行えなかったと擁護しているように読める部分もあります。
しかし、だから「彼の主張全体が虚偽、捏造だという主張は本質的ではない」との主張は極めて的外れです。なぜなら「吉田清治は当事者ではない」からです。その陳述や記憶をたどったところで当時を再構成することは出来ません。

吉田清治の本は小説カテゴリで出版された「創作物」、吉田清治に戦時中チェジュ島に渡った記録はない...これらのことから吉田清治は当事者ではない、よって彼の証言から読み取れる事実は存在せず、それらを「事実」として報じた朝日新聞には、捏造かどうかはともかく、また事後的に事実と異なると判明した場合であっても記事の撤回義務が生じたに過ぎません


ファクトの総和が「真実」ではない、という部分も少し引っかかります。「事実」と「真実」が異なるものであるのは同意しますが、大事なのは「事実」であって「真実」ではありません。「真実」は嬉しかったとか悲しかったとかの「感情」を含むので、一人一人違うのが当たり前です。よって、「当事者の陳述と記憶」がファクトになることはありません。
ファクトは「客観的裏付けの取れる事実」のことであり、ファクトの総和は限りなく「事実」に近しいものです。
陳述と記憶を裏付ける「客観的事実」があって初めて「ファクト」は意味を持ちます。
(自称)被害者が好き勝手並び建てた被害は「真実」なのかもしれませんが、これを無条件に「事実」と呼ぶことは出来ません。