「儒教」「科学」、モノと時代は違えど一つに原因と結果を集約する癖の話

17世紀頃から科学を受け入れた日本と受け入れなかった朝鮮とを比較し、歴史の教訓から「科学が国家の未来を左右する」とするコラムがありました。
最終的に言いたいことは、基礎科学分野への投資と人材育成は充分か?という問題提起です。

「基礎科学分野への投資は大事」それは良いと思います。モノになるかどうかはともかく必要です。
そこはある程度の同意はできるのですけれど、そこに至るまでの「科学がいかに大事か」を語る中に、韓国でよく目にする極端さが顕れているように思えました。

 



国際ニュースの記事からです。

[時事コラム]科学、国の未来を左右する


「科学(science)が国家の未来を左右する」という言葉は新しいものではない。国家の将来が科学をどのように受け入れるかによって運命が変わりという話だ。
科学を重要視する民族は発展し、国民の生活も充足するのである。

現代科学は実学であり、利用厚生*1の学問だ。我々は過去の歴史からこれに背を向けてきたことを強く感じる。儒教社会の朝鮮は、19世紀になってもメンタルを忘れることができず、科学と実学にそっぽを向いた。世界は恐ろしく変化しているが、鎖国という関門をより高めて富国立国の科学を受け入れなかった。

(中略)

朝鮮は約300年前の壬辰倭乱で受けた傷を思い起こすことが出来なかった。火縄銃の威力に軍人が枯れ落ち葉のように倒れながらも、改良した銃さえ作ることが出来なかった。愚かにも科学が受け入れられなかったからだ。

(中略)

この時点で日本は違っていた。朝鮮から拉致した陶工たちに名品磁器を作らせ、欧州に売って国富を育てた。新兵器を作り、若い技術者を欧州に送り新しい科学者を養成した。産業の各分野の技術力を育成するため、膨大な投資を行った。

(中略)

壬辰倭乱後、しっかりしていたら36年間日本に強占される屈辱を経験しなかっただろう。17世紀から科学を受け入れ、実学を重視していたなら日本と対等な国力を持っていただろう。

(後略)



国際ニュース「[시사칼럼] 과학, 나라의 미래 좌우 한다([時事コラム]科学、国の未来を左右する)」より一部抜粋

なんか極端なんですよね。結局、科学立国うんぬんは結果論ですし。
儒教」を「科学」という言葉に置き換えただけで、ひとつに(のみ)固執するいわゆる「オール・イン」状態は変わってません。問題はそこじゃないかと思います。
私は選択肢が多い国が結果強いと思うのですけどね。

今の韓国経済や政治を見ていても感じます。両極端、あるいは一極集中でそれが上手く行かなかったときの腹案がありません。たぶん、投資で言うところの分散投資とかリスクヘッジとか下手です。
物事の原因を一つに絞りたがったり、歴史解釈を一つに限定したがるのも同じ理由からでしょう。

 

訳について少し捕捉です。
「改良した銃さえ作ることが出来なかった」の「〜さえ出来なかった」は原文が「〜지 못했다」で表現されています。
韓国語の「出来ない」にはもう一つ「할 수 없다」という表現があり、意味としては大きく違いません。
ただ、あえて違いをあげるなら「할 수 없다」には状況が許さないような「仕方ない」のニュアンスが含まれる気がします。「諦めるしか無い」みたいな。
それに対し、「〜지 못했다」には自分の意志でやらない、出来ないとのニュアンスになります。

銃を改良しなかったのは状況が許さない(銃が手に入らない)や技術の問題ではなく、「朝鮮自身の選択意志であった」という解釈です。

*1:物事を役立たせて人の生活を豊かにすること。