左右盲と言語の話

左右盲」というのがあるのだそうです。
病気というわけではないのですが、とっさに右と左を判断できずに一瞬迷う、という状態の俗称だそうです。
私はそういった経験は無いですが、母がその気があるのでなんとなく想像がつきます。

そんな「左右盲」についてTwitterに上げられたマンガが紹介されていました。
この記事を見て思い出したのが、絶対方位しか持たない言語の存在です。


作者の方は、ご自身が「左右盲」になったきっかけを子供の頃の体験に遡って推測されています。

幼稚園のころ、円になった園児に対して先生が「右手あーげて!」と声を掛けたところ、作者さんだけ「左手」を挙げて「逆だよ」と注意されたのですが、向い合せに立っている子たちは、作者さんから見ると「左」を挙げている状態になっているので「何で目の前は反対なの?」と混乱したのだそうです。

鏡ではないのだから、向い合せに立っていたら「逆」になるのは当然の気がしますよね。

でも、この「当然」という感覚は「言語」による認識の歪みの結果かもしれません。


世界には数千の言語がありますが、大体の言語において位置関係を表すのに、自分を中心軸とした相対方位(前後左右) と地球の地軸を中心とした絶対方位(東西南北) の2種類があります。

ですが、世の中には絶対方位しか持たない言語というのが存在します。
「言語が違えば、世界も違って見えるわけ(ガイ・ドイッチャー著/椋田直子訳)」や「ことばと思考(今井むつみ著)」などの書籍で紹介されています、オーストラリアの原住民族の一部で使われている言語がこの特徴を持っています。
驚いたことに、彼らは室内でも初めて訪れた土地でも正確に東西南北の方向を認識できるという、極めて優れた方位置把握能力を持っていることが分かっています。


彼らの言語では 「グラスはお皿の東にある」 という言い方をします。
同じことを相対方位の言語で言おうとすると、立ち位置によって「グラスはお皿の右」にも「お皿の左」にもなりますが、絶対方位の言語では常に「東(絶対方位)」に固定されます。


そして、ここからが非常に興味深いのですが、テーブルの上の食器の配置を覚えてもらって再配置する実験を行うと、相対方位の言語の話者と絶対方位の言語の話者で配置する位置が変わってしまうという現象が起こります。

なぜそんなことが起こるのかと言うと、例えば東向きに設置されたテーブルの真ん中にお皿をセットし、右(南)側にグラスを置いた配置を覚えてもらいます。
そしてテーブルを西向きに変えて再配置してもらうとします。

すると、相対方位の言語を持つ人たちは真ん中にお皿をセットし、右(北)側にグラスを置きます。
ところが、絶対方位言語を持つ人たちは真ん中にお皿をセットし、左(南)側にグラスを置きます。

テーブルを西向きに置いたときの南側は相対方位においては左側になります。
ですが、最初の東向きに置かれたテーブルの配置では、絶対方位においてはグラスは南側に置かれていたのです。

相対方位を持っている日本人としては、おかしな感覚になりますがどっちが正解/間違いとは言い切れないと思いませんか?


これが「人の思考は言語の影響を排除できない」「何らかの形で母語による認識の歪みを受けている」ことの証左として取り上げられています。


このような感覚は自然発生的に身に付くのではなく、育ってきた社会の習慣として後付で学習するものです。
つまり相対方位である左右は日本語を習得する過程において身につける感覚ということです。

なんらかの理由で、その感覚付けが曖昧なままだと咄嗟に左右が判断できない「左右盲」という状態になるのかもしれませんね。


もしかしたら、逆に相対方位より絶対方位の方がプリミティブな感覚という可能性もあります。
その場合、日本語の言語体系がたまたま相対方位も持ってしまっているがために、本来持っていた絶対方位的な方向感覚が母語の習得過程で失われたと見ることが出来ます。

左右盲」の人たちは、その感覚を失わずに持ち続けているがために相対方位が苦手なのかもしれません。