「朝鮮人には愛国心はなく、民族的本能だけがある」という話

イザベラ・バードさんの「朝鮮紀行」を最近になって読んだという人のコラムが紹介されていました。
120年前に彼女が見たという朝鮮と、現代の韓国...何が変わったのか、何も変わっていないのではないか、そう思うと背筋が寒くなる的な内容です。

 

 

毎日経済の記事からです。

朝鮮人には愛国心はなく、民族的本能だけがある」【ノ・ウォンミョクコラム】


19世紀、英国の旅行家イザベラ・ビショップ*1は1894年から1897年まで4回にわたって韓国に長期滞在した経験を元に「朝鮮とその隣国*2」という有名な旅行記を残した。本は、韓国近代史の専攻者によって隅々まで分析されており、一般人の中にも読んだ人が少なくない。私は最近になって読んだが、旅行の奇跡的な楽しみよりも120年前の朝鮮人と極東の情勢に対する著者の冷静な評価が実感された。

ビショップは、当時アジアで唯一「文明国」扱いを受けた日本に対して全般的に友好的だ。それは韓国人読者を多少不愉快にさせる恐れがある。例えば次のようなところだ。「中国の宗主権の陰の下で朝鮮の両班たちは貴族的な生活の雰囲気で、強圧と独裁の無限の機会を享受してきた...朝鮮の農民たちは日本と西洋教育を通じて、自分たちが最終収奪対象であることが必然的な運命ではないという点と、市民権、法の前での平等権、財産を保護する権利を与えられたことを少しずつ悟っている」

今、韓国で市民権、法治主義私的財産権のような近代的な基本価値を韓国に移植した主体が日本だ、と主張すれば「植民地近代化論者」というレッテルがすぐに付いてくる。「土着倭寇」と言われるかもしれない。私は今の自分の話ではなく日清戦争を前後して朝鮮を4度深く観察した英国人の主張を伝えるのだ。

ビショップの主張は続く。「(日清戦争後、3年の間)中国との従属関係が終わり、日本が勝利したことで中国の軍事力は決して崩れない、という朝鮮の信頼は崩れ、政治的に腐敗した(中国と朝鮮の)2つの体制の同盟は断絶した。両班と庶民の区分は奴婢制度とともに、少なくとも文書上では廃止された。野蛮な処罰と拷問も廃止され、便利な貨幣が紙幣に変わり、強化された教育制度が実施され訓練された軍隊と警察が創設された。

どうだろう。帝国主義援助国出身の旅行家が日本の帝国的野心を無視してとんでもない賞賛を述べたのか。あるいはそうかもしれない。しかし、日清戦争以前に朝鮮が清の属国であったこと、日清戦争後の下関講和条約によって、この従属関係が公式に終了したということは客観的事実だ。韓国の歴史教科書はこの事実を正しく教えない。教科書は朝鮮の体制矛盾には目を向けず、その結果、朝鮮を実際よりも美化している。

韓半島で「独立」という言葉が大衆的に使われるようになったのはビショップが旅行記を書いた頃だった。1896年に独立協会が結成され、間もなく独立新聞が発行された。中国の使臣を迎えていた「迎恩門」は現在の独立門に変わったのも1897年のことだ。このときの独立はもちろん中国からの独立を意味する。本来、独立した者は独立という言葉を使う必要がない。日清戦争以前の朝鮮は、独立した国ではなかったのである。

ビショップは日清戦争後、日露がしのぎを削る韓半島情勢に対して、このように助言している。「朝鮮は独力で維持できず、そうした困難な状況が解決されなければ朝鮮は日本やロシアの反故化に入らなければならない」。知っての通り、実際にそうなった。ビショップの次の文が特に私の胸を打つ。「どのように使えばいいか分からない独立性という贈り物を朝鮮は日本から貰った」。朝鮮は数百年独立状態だったが、ある日突然、日本に侵奪されたのではなかった。朝鮮の独立は非常に短く、それは日本が日清戦争で勝ったために与えられた贈り物だった。ビショップはそのように見ている。

独立という贈り物をどうすることも出来ずに右往左往する朝鮮の朝廷の様子を、ビショップは次のように記述している。「(俄館播遷*3で親露派が力を得た状況で)宮内府と王の側近は再び最も醜い方法で売官買職を始めた。この悪習は誰も牽制しないが、最も悪辣な慣習だった。膨大な官職を握っている王は、公金を私費に流用し、自身の身辺が安全で日本の干渉も無くなると自分の王朝の過去の弊習に復帰した」

ビショップは朝鮮人の非衛生、無礼さに対して嫌悪感を示すことが少なくないが、基本的にその潜在力を認め、次第に嫌悪から愛情に見方が変わっていく。しかし彼女の観察眼は時に短刀のように冷酷かつ正確だ。「朝鮮の人々には本当の意味としての愛国心はないが、強い民族的本能がある」。近代的国民主義ではなく、原始種族主義に基づいた排他的性格のことであろう。

私はこの点で、原題韓国人は果たして違うのか、と考えてみる。韓国人に種族的本能以外に愛国心というものがあったことがるのか、という疑問だ。韓国現代の歴史教科書は民族意識は過剰になったが、大韓民国という国家の偉大性、固有性についてはしかりしている。大韓民国が朝鮮と植民地を乗り越え、まったく新しい体制、真の意味で韓半島最初の国民国家であるという事実は無視する。そのため、愛国心は発現されにくく、民族にもならない種族主義が幅を利かせている。

(中略)

世の中の変化の速度は日増しに早くなって行く。その中でも、ゆっくり変わるものもあれば、なかなか変わらないものもある。私は遅れて読んだビショップの旅行記を通じて、120年で何が変わり、何があまり変わらなかったのか推し量ってみた。そして、あまり変わらなかったことで少し背筋が寒くなった。



毎日経済「"조선인에겐 애국심은 없고 민족적 본능만 있다" [노원명 칼럼](「朝鮮人には愛国心はなく、民族的本能だけがある」【ノ・ウォンミョクコラム】)」より一部抜粋

「私が言っているんじゃありません。昔の英国人はこのように見ていたのです」...予めこう言っておいてから、端々に自分の主張を織り交ぜていかないと何も言えないんですね。

 

国を動かしているのは結局は人間です。で、その人間というのは100年程度でなにか変わるのか?というと数百年単位でも変わらない部分の方が多いと思うのです。
今の世の中見回しても変わったものって、科学技術くらいのものじゃありませんか?人の生活が大きく変化したのはその影響であって、そこに暮らす人間自身の有り様が変わったわけではないでしょう。
120年前と何も変わっていなくて当然ではないでしょうか?歴史に学ぶなら、「人は変わらない」を前提に、同じ鉄を踏まないつもりで振り返らないと何の意味もないように思えます。

*1:イザベラ・ルーシー・バード・ビショップのこと。日本では「イザベラ・バード」と呼ばれる方が一般的。

*2:原題「Korean and her neighbors」

*3:高宗がロシア公館へ駆け込んだ件。