教科書検定の件で、「歴史対立を共同研究で解決しよう」という主張の話

この前の教科書検定の報道を受けて、対立を「共同研究で解決しよう」という寄稿文が出てきました。東北アジア歴史財団研究政策室長という肩書を持った人です。
ナム・サングさんという人ですが、この件であちこちで「日本の学会・市民社会と連帯しなければ」みたいなことも言っているようです。

 



韓国日報の記事からです。

韓日の歴史対立を共同研究で解決しよう


(前略)

韓日間で懸案になっている日本軍「慰安婦」と強制動員問題に対する日本の教科書記述を見ると、両国間の歴史認識の差はますます大きくなるしか無い。今回の検定で重視されたのは学会の研究成果をどのように反映するかではなく、日本政府の公式見解を反映したかどうかだった。もはや両国政府間の意見の対立が教科書を通じて未来世代に拡大再生産される段階に入った。

強制動員の大法員判決を受けた日本企業の資産の現金化問題と、日本軍「慰安婦」韓日合意の継続措置などは、韓日両国が政治的解決策を模索して一段落する可能性もある。もし、政治的解決策を見いだせなければ法的手続きによって一段落するだろう。しかし、未来世代を含む両国民の間の認識の相違がますます広がるなら、問題がいつ、どこで、どのように再び爆発するか分からない。

(中略)

これまで歴史上の葛藤を解消するための方策として進められてきたのが共同研究である。韓日両国政府は2001年から「韓日歴史共同研究委員会」を設置し、2度にわたって共同研究を行った。民間レベルでも様々な共同研究が進められた。

共同の歴史研究は教科書問題をはじめとする韓日間の歴史葛藤を一度に解決できる「打ち出の小槌」ではない。ところが、過去には共同研究を「打ち出の小槌」と勘違いして過度な期待をしたせいで、その成果に失望したりもした。その結果、共同研究を持続的に推進する動力を失っている。

歴史の共同研究は協力と対話の慣行を蓄積していく過程だ。 したがって、様々な試行錯誤を経験する可能性もある。目に見える短期的な成果を求めてもならない。安易に中立的な合意を引き出すよりも、まず違いを明確にする必要がある。その差がどうして生じるのかを真剣に考えなければならない。

韓日が歴史問題を解消するための方策として共同研究を推進するためには、まずこの研究が長期的かつ持続的にできるよう制度的な保障をすることが必要だ。このような安定的な基盤の上で相互理解の幅を広げていけば、両国の歴史認識の差も縮まるだろう。



韓国日報「한일 역사 갈등, 공동연구로 풀어보자(韓日の歴史対立を共同研究で解決しよう)」より一部抜粋

ひとつめ太字の箇所、「日本」を「韓国」に置き換えてもそのまま通じるということに著者は気が付いているのでしょうか?
この人が取り上げた「共同研究」の場において、韓国側が史料を無視した「民族的感情を満足させるストーリー」を歴史にしたがっていたことはバレています。

 

この手のコラムは必ずと言っていいほど「共通の歴史認識が必要」が前提になっていますけれど、なぜそれが必要なのか、私にはさっぱりです。
認識とはモノの捉え方で、歴史とは事実の列挙。事実の列挙をどう認識するかは個人それぞれです。個人間でも違うものを国単位で「共通」には出来ません。
韓国の言う「共通の歴史認識」とは要するに、「事実の列挙」をどう解釈するかまで「韓国の言うようにして欲しい」ということであって、それは歴史でも教育でもなく教化です。政治だけでなく歴史まで宗教ですね。

日韓歴史共同研究の最大の成果は、「共通の歴史認識」なんてものは虚構だと知らしめたことでしょう。