1614年の奴婢の売買文書から分かることの話

1614年、日本では江戸時代初期の頃の朝鮮半島で、18歳の下男の売買取引が行われた公的文書が1980年代に見つかっています。当時の奴婢の売買規定や手続きなど色々なことが分かる貴重な歴史史料です。
と、当時に、奴婢の売買が「高度に」行政手続き化されていたことの証でもあり、本来「人文主義」であるはずの儒教を国教とした朝鮮の暗部が垣間見られる史料でもあります。

 



朝鮮日報の記事からです。

「人口の半分」を奴隷にした朱子学の国・朝鮮


時には古い紙一枚にも社会の経済実状が凝縮されている。全羅南道海雲のユン氏宗家緑雨堂で1980年代初めに発見された売買文書の一枚がそうだ。

(中略)

18歳の奴僕*1を買うために馬を牽いてきた者は「斗(伊+叱)間」と記されている。「斗(伊+叱)間」とは厠間、すなわち便所という意味だ。当時、奴婢たちは姓も持たず人格を卑下され、抑圧される侮辱的な呼び名だけで呼ばれた。

(中略)

18歳の奴僕を連れてきて馬と交換した取引当事者は故ユン・サフェの夫人キム氏だ。

(中略)

当時の法的形式により、この文書には具体的な売買の理由が記載されている。止むを得ず奴婢を売ることになったのは「戦乱を経験して家が貧しくなり、葬儀を行う費用もない」ためだった。続いて奴僕の身元を証明する奴婢の系譜が出てくる。

(中略)

文書の最後には金得祿と金得命の2人の証人の氏名が記載されており、その横に直接筆を取って文書を作成した筆執(文書作成人)金遇の名前もある。

(中略)

短いと言えば短いこの文書には、計10人の名前が登場する。そのうち5人は奴婢、残りの5人は平民や両班の身分だ。実名は出てこないが地方官吏の内裏たちと県監も登場し、証明書を発給して所有権移転を法的に公証する役割をする。この文書を通じて少なくとも5つの歴史的事実を確認することができる。

1. 1610年代、朝鮮の全羅道で18歳の奴1口(奴婢を数える単位)と5歳の馬1匹が一対一で交換された事例がある。これは奴婢1人の価格を馬1頭の価格に該当する「楮貨4千」であり666日の労働と明示した<経国大典>の規定と大体符合する。
2. 奴婢の所有権は母系で遡り、政府がその法的効力を保証する。
3. 奴婢売買の現場には少なくとも2人の証人が参加する。
4. 奴婢売買は取引当事者が法律形式に合う書類様式を作成し、地方政府官吏に証明書発給を請願する。
5. 地方官吏たちが文書を公証し、最終的にその村の上役、または県監が証人することにより奴婢売買文書の法的効力が発生する。

性理学の朝鮮は奴婢制の国

性理学を国教とし、朱子を精神の師と崇めた朝鮮社会は人類史では類を見ない苛酷な奴婢制社会だった。何度も明を訪れた成俔(1439~1504)は「中国は人々が皆国人」だが「我が国の人口は半分が奴婢(我國人物, 奴婢居半)」という有名な言葉を残した。


(中略)

17世紀初め、慶尚道の様々な地域の戸籍を調べると人口の40~50%が奴婢として登録されている。ある時は、首都周辺には人口の75%が奴婢として登録されたところもあった。

(中略)

朝鮮時代の両班たちが朱子を崇めながら四書三経を読むとき、その下で奴婢たちは主人の手足となって野良仕事、家事、台所仕事、小間使いなどさせられ、意地悪をされても文句も言わず必死に働かなければならなかった。朝鮮の身分制度はあまりにも徹底しており、インドのカースト制を圧倒した。両班の子孫は代々両班の身分を維持することができ、奴婢の子供たちは「根本賤生」から決して抜け出すことは出来なかった。

(中略)

イ・ヨンフン教授の実証的研究によれば、高麗末期まで奴婢は全人口の5~10%程度に留まっていた。韓国史で奴婢の数が急増した時期は15世紀以降、性理学の国朝鮮になってからだった。両班の圧迫に押され、朝鮮朝廷が親の片方が奴婢なら奴婢とする一賤即賤の原則を国法として採択してから奴婢の数は指数関数的に増え始めた。まもなく朝鮮は人口の30~40%が他人の財産として登載される奇怪な奴婢社会になった。

(中略)

韓国の学者たちは奴婢を奴隷(slaves)と見る欧米学界の見解に敏感に拒否感を示したりもする。一部の学者たちは奴婢を奴隷と見ることは出来ないとし、奴婢を「slave」と訳さずにローマ字で「nobi」と書かなければならないと主張することもある。

(中略)

そのような反発は、欧米言語で通常使われる「slave」という概念医対する理解不足から始まる。

簡単に定義すると、奴隷とは他人が所有する人間を意味する。他人の所有物に転落した人間は主人の要求時に労働力やサービスを提供しなければならない存在的隷属性を持つ。奴隷は全て他人に従属しているという共通点があるが、奴隷の生活は千差万別になり得る。

(中略 ※米国における黒人奴隷の実状に触れ、「奴隷(slave)」というのは「他人に隷属状態」であることを意味するものであって、個々の生活環境の違いは関係ないことを紹介)

直接労役を捧げる労役奴婢であれ、身代金で供物を捧げる農耕奴婢であれ、奴婢の英語訳は「slaves」にならざるを得ない。世界奴隷学界の一般的概念によれば、いかなる理由であれ他人に身分が縛られ労役や身代金を捧げなければならない全ての人間は奴隷に分類されるためだ。その中で子供に身分が世襲されれば相対的にさらに苛酷な奴隷制と認識される。朝鮮の奴婢制がそれに当たる。

(中略)

世襲奴隷制度、身分世襲の形態によって大きく二つに分けられる。親一方より低い身分が子供に継承される「より悪い条件(deterior condicio)」の世襲制と、親一方のより良い身分が子供に継承される「より良い条件(melior condicio)」の世襲制に分けられる。朝鮮は一賤即賤の原則に従い親のうち一方が奴婢の身分であれば子はすべて奴婢になる「より悪い条件」の世襲制だった。性理学の国朝鮮は、ひどく過酷で悪辣な従賤法を300年以上維持していた。我々はこの事実を比較史的観点から冷静に評価しなければならない。

(中略)

朱子学の国朝鮮に儒教的な人本主義があったのか?弘益人間や人乃天のような人類的普遍理念を追求したのか?朝鮮の朱子学者たちは一体どのような人間観を持っていたために人類史最悪の身分制をあれほど長い期間維持できたのか?



朝鮮日報「“인구 절반”을 노비 삼은 주자학(朱子學)의 나라 조선(「人口の半分」を奴隷にした朱子学の国・朝鮮)」より一部抜粋

生まれが全てを決め、それが子々孫々受け継がれる、という考え方は今も韓国に根強く残っているように感じます。その一つの表れが「スプーン階級論」でしょう。

そこ(生まれの縛り)から唯一抜け出す手段が自分も「両班になること」です。性理学(朱子学)はすべてのモノには生まれながらに「定められた価値」があると考えます。そして立派な生まれの人には立派な地位と人生が、卑しい生まれの人には卑しい地位と人生が「約束」されているわけです。
これは逆説的に「人生勝組」になれればその時点で自分の生まれにまで遡って人生が「全肯定」されるとも言えます。
現代韓国において既に両班という身分制度はありませんが、色々なところに片鱗が残っています。一番は「マンションを買うこと」かと思います。
というのも、「抗日独立義士」の子孫と言われる人たちに様々な恩恵を与えているのですが、その一つにマンションの優先購入権があるのです。
独立有功とマンション購入に一体どんな関係があるのか?しかも本人ではなく2代も3代も経った子孫に...と思うのですけど、韓国社会では「当然のこと」として受け入れられているようです。(ちゃんと法整備もされています)

これが「両班の子孫は代々両班の身分を維持することができ」が現代も続いていると感じるところです。


ここからは特に根拠のある考えというわけではないのですが、15世紀以降、奴婢の数が急激に増えたことと関連して、ちょっと個人的に思うことです。
韓国のメディアの記事のパターンとして、自国産業や自国企業、自国民を褒めるときにセットのように他を貶める論調をよく見かけます。相手を下げることで相対的に自分を上げる書き方ですね。(「自分が成した〇〇はスゴイこと」ではなく、「あの人には出来なかった〇〇を自分だけは成し遂げた」みたいなノリ)
日本メディアもよくやる手(最近、N〇Kが将棋関連でやりました)ではあります。その分野に詳しくない人に凄さを伝えるために効果的なんでしょう。
それにしても韓国メディアは「多い」と思います。基本的にデフォルトがこの手法という印象があります。

誰かと比較しないと価値を証明できないということだと思うのですけど、もしかして半島で奴婢が増えた理由も同じじゃないでしょうか?
両班両班(高貴)たらしめるためには一般人ではなく「より卑しい存在(=奴婢)」との対比が必要とされたのではないでしょうか?
それと、奴婢そのものが財産であったことから両班が財産を増やすために奴婢を「量産」した可能性もあったかもしれません。


*1:原文「사내종」。漢字表記が見当たらないが男性の下僕を意味すると思われる。