【バンダーさん】「未開朝鮮と開化日本の接点となった朝鮮通信使・修信使」の話 その1

趙甲濟ドットコムよりバンダービルドさんのコラムから「未開朝鮮と開化日本の接点となった朝鮮通信使・修信使」です。

テーマは「朝鮮通信使当時の日本から見た朝鮮」といった所でしょうか。当時の日本は世界情勢をかなりの精度で収集しており、西洋の文物も取り入れていました。そんな日本から見た朝鮮は儒教思想に凝り固まった「呆れた」存在だった...そんな話です。

多分1万字くらいあるので2〜3回に分けさせてもらいます。今回は朝鮮通信使の概要と、当時の日本の情報収集力についてです。

未開朝鮮と開化日本の接点となった朝鮮通信使・修信使

今日の韓国人が外交・安保分野で大きな危機に直面した理由は無知と誤判を兼ね備えた朝鮮時代水準の人々が周辺にあふれているためだ。



(※相当部分が「日本で笑いものになった朝鮮修信使」(ペン・アンド・マイク、2021.8.27)の内容を参照しました)


壬辰倭乱により日本との国交が断絶、1607年(宣祖40年)再開され朝鮮通信使が日本を訪問することになった。当時、日本は徳川家康(1542〜1616年)が権力を握った時期で、幕府将軍としての治世を表し、朝鮮と善隣関係を維持するために朝鮮通信使は推進されることになった。朝鮮通信使は一度に400〜500人の大規模だった。通信使代表の職位は正使で正三品格であった。今で言えば1級公務員程度になる。


朝鮮通信使は一度の行幸に100万両ほどの莫大な費用が掛かった。費用は全額日本幕府が負担した。通信使一行が500人の場合、一人当たり2000両という計算になる。当時、日本に居住する外国人の中で最高の待遇を受けたのはイタリア人宣教師「シドッティ」(Sidocci)という人だったが、彼の1年の生活費は25両程度だった。滞在期間に関係なく比較すると「外国人VIPの1年の生活費25両 vs 朝鮮通信使1人の旅費2000両」となる。朝鮮通信使が外国人VIPに比べて80倍にもなる超豪華なもてなしを受けたことが分かる。


朝鮮通信使は1811年(純祖11年)まで計12回実施された。朝鮮通信使の移動コースは漢城から出発して東莱を経て対馬、下関、大阪、京都、名古屋などを経由して江戸(東京)に到着する旅程だった。朝鮮通信使の時期と規模は次のとおりである。


01回次:1607年(宣祖40年)、467人行幸、日本との国交回復記念
02回次:1617年(光海君9年)、428人
03回次:1624年(仁祖2年)、300人、徳川家光就任を祝う
04回次:1636年(仁祖14年)、475人
05回次:1643年(仁祖21年)、462人、徳川家綱誕生祝い
06回次:1655年(孝宗6年)、488人、徳川家綱就任祝い
07回次:1682年(寛宗8年)、475人、徳川綱吉就任祝い
08 回次:1711年(寛宗37年)、500人、徳川家宣就任祝い
09回次:1719年(寛宗45年)、479人、徳川吉宗就任祝い
10回次:1748年(英祖24年)、475人、徳川家重就任祝い
11回次:1763年(英祖39年)、472人、徳川家治就任祝い
12回次:1811年(純祖11年)、336人、徳川家斉就任祝い


朝鮮通信使一行は日本に到着し、発展した姿と文物に接することになる。そして衝撃を受ける。このような内容は朝鮮通信使の記録にそのまま残っている。朝鮮通信使が日本側に朝鮮の先進文物を伝えた、という形の話は100%嘘である。最後の12回目の朝鮮通信使は日本本土を踏むことも出来ず、対馬からそのまま朝鮮に戻った。


莫大な経費をかけながら朝鮮通信使を迎えてきたが、日本幕府はこれまで朝鮮から学んだことはほとんどなかった。通信使一行が常に性理学と朱子学を取り上げながら勿体ぶって帰る姿だけを見なければならなかった。日本は行事の継続可否を巡って悩みに陥った。当時、日本幕府は改革と開放政策を通じて世界の最新情報をほぼリアルタイムに把握していた。したがって依然として朱子学、性理学の枠組みから一歩も抜け出せずにいる朝鮮の通信使は次第に価値が無くなっていった。それで結局、1811年の12回目には江戸(東京)まで来るまでもなく通信使一行を対馬で適当にもてなし、そのまま帰したのだ。これを易地聘礼(えきちへいれい)という。そしてそれで終わりだった。


日本幕府は既に1600年代に長崎沖に「出島」という人工島を造成した。1634年から1636年までの約2年間の工事を経て扇形に造成された人工島でのみ、オランダの東インド会社(オランダ、英国、フランスなどが東洋での貿易権を行使のために東インドに設立した貿易会社)所属の船舶が出入りし、日本と商業行為を営めるようにした。出島は一種の貿易基地だったわけだ。


日本幕府は1857年にオランダと追加の貿易条約を結ぶまでの200年間、長崎の出島を通じて西洋の武器、技術などの先進文物や文明を無差別に吸収した。日本幕府はオランダ領に長崎の人工島の出島を提供する代わりに、オランダが全世界にある東インド会社の支店を通じて獲得した高度な情報を出島駐在のオランダの責任者に報告書という形で整理させ、江戸幕府に毎年定例報告を義務付けた。


これに対し、出島駐在のオランダの責任者は世界中の東インド会社を通じて把握した最新の情報をまとめ、毎年江戸を訪問し直接幕府にその内容を詳細にブリーフィングしたが、このブリーフィングは1857年まで計166回にわたって行われた。江戸幕府はこうしたやり方で既に1600年代はじめから世界情勢をいちいち把握していた。ところが、このようなレベルの幕府に対して朝鮮通信使一行が性理学がどうした朱子学がこうしたという形の戯言を並べ続けたのだから、日本の幕府にとっては呆れたことだろう。


1853年7月、米国ペリー艦隊(黒船)の日本江戸沖登場(出現)に日本が大きな衝撃を受けたという話も事実ではない。日本は既にオランダ東インド会社を通じて米国ペリー艦隊の動向を把握しており、日本に到着する時点まで知っていた。日本が驚いたのはペリー艦隊の登場そのものではなく、ペリー艦隊の攻撃に備えてそれなりに日本で最も良い大砲など強力な武器を用意して待っていたが、実際のペリー艦隊の武装を目にした結果、予想よりずっと強力だったためだ。


(後略 以下、その2に続く)


趙甲濟ドットコム「미개(未開)朝鮮과 개화(開化)日本의 접점(接點)이 된 朝鮮 통신사(通信使)·수신사(修信使)(未開朝鮮と開化日本の接点となった朝鮮通信使・修信使)」より

シドッティって確か、密入国して捕らえられて幽閉された人で、身分としては「囚人」です。新井白石が唐国とか呼ばれていた中国を「支那」と呼び始めたのは、彼を尋問した時にヨーロッパでの呼び名を聞いたから、とかなんとか聞いた(読んだ?)覚えがあります。

最後は地下牢での衰弱死だったかと。それを「最高の待遇」「外国人VIP」として引き合いに出すのはどうかと思います。

費用については、当時の貨幣価値を今のものに換算するのはめちゃくちゃ難しいのでハッキリとは言えないのですけど、一応米価で見てみると25両というのは100万〜250万くらいになります。2000両は8000万〜2億、100万両だと400億〜1000億...って、ちょっと現実的ではない数字に思えますねぇ。まあ、ほとんどが日本国内の移動ですから、国内への経済効果としては相当大きかったことは間違いないでしょう。