日本人が礼儀正しいは本当か?な話

「日本人は礼儀正しいのかどうか」を、日本語の「世間」の意味を定義しながら書かれたコラムを紹介します。

先に触れておきますが、このコラムでは「礼儀」を「マナー」や立ち居振る舞い的な「礼儀正しさ」という行動だけではなく、「相手への気遣い」「親切」「謙虚さ」「尊敬の念」のような感情的な意味合いでも使っています。しかも、「自然と心からあふれて来る真正性のある親切心」のような、割と重めの意味です。文体のせいもあるかもしれませんが。

私はコラムが使う意味での「礼儀」において、日本人が特別礼儀正しい国民性だと感じたことはないので、日本人を「礼儀正しい」とするのは安易なステレオタイプか、あるいは頭の中にある「理想の日本人像」を押し付けられているように感じてしまって拒否感があります。

 



韓国日報の記事からです。

よく謝る日本人、礼儀正しいのかどうか


◇「日本人は礼儀正しい」という命題の真偽は?

日本人は周りに迷惑をかけるのが嫌いだと言われる。実際、日本に住みながらこれを実感することが多い。道を歩いていて手が当たったりすると、自分の過ちでなくても丁寧な謝罪の言葉をかける。

(中略)

日本人が海外旅行に行って現地ガイドに聞く助言の一つは「あまり頻繁に謝らなくても良い」ということだ。西洋では意思疎通をする時、個人が自己主張を率直かつ明白にすることが重要だ。そのような文化では「迷惑をかけた」「申し訳ない」という言葉を口にして歩くと、本当に罪が多い人のように誤解を招く恐れがある。習慣のように謝罪の言葉を乱発する人もいるが、周りに迷惑をかけないように心から努力する日本人を多く見た。そのおかげで、日本ではどこへ行ってもだいたい大人しく礼儀正しい雰囲気を感じることができる。

しかし、日本に長く住んでいて正反対の場合も経験した。例えば人混みの地下道や歩行者道の中には、たまに歩行方向が決まっている場合がある。ちょうど道路ががらんとしていて、何も考えずに決められた歩行方向を逆に遡っているとしよう。それだけの理由があるとしても、ルールを守らない場合には相手に「日本人らしい」礼儀を期待しにくい。向い側から人が来ることを明らかに知りながらも体を避けなかったり、そんな中で体をぶつけたら謝罪どころか冷淡な表情で責める言葉を吐き出すかもしれない。雰囲気が険悪になるほど喧嘩をする場合はないが、普段なら丁寧に謝った状況に突然無礼な反応で呆れる。普段は度が過ぎるほど親切だが、時には豹変する態度によって外国人の中には日本人が表裏不同だという認識を持つ場合もある。

◇ 「セケン」のため礼儀を守る日本人

では、日本人は礼儀正しいのか、そうではないのか?日本社会を実際に経験した立場から答えると「そうだ」でもあり「違う」でもある。多くの日本人が礼儀正しいのは事実だが、それが他人に迷惑をかけたくないという配慮から始まったわけではないからだ。この曖昧さを理解するのに役立つ「世間」という概念について紹介したい。

(中略)

本来は仏の教えに従って出家した「出世間」について俗世の人間世界を意味する仏教用語だが、日本では私を取り囲んでいる外の世界を意味する日常用語としてよく使われる。

(中略)

世俗的な評判という脈絡でセケンという単語が登場する表現が多いのだ。実際、日本ではセケンは特定の行動様式を暗黙的に強要する文化的圧力として理解されることが多い。例えば、日本社会は一糸乱れぬ行動をし、和合することを暗黙的に強要する同調圧力が強いことがよく知られている。セケンを常に意識する情緒が同調圧力を煽る文化的源泉といえる。

日本文化に関する複数の研究結果によると、日本人の礼儀正しさは世俗的な評判を意識する情緒から始まる傾向があるという。世の中の人々の目に気を使うため、他人に親切で礼儀正しく行動しようと努力するということだ。もちろんだからといって否定的に見ることだけではない。どんな理由であれ、他人に乱暴で無礼な態度を取るよりは、百倍もましだ。ただし、他人に礼儀を持って接する態度が平等な個人に対する理解と尊敬心から湧き出たものではないため限界がある。時々世俗的な評判を意識しなければならないという名分が消える瞬間もあるためだ。例えば、歩行方向を守らない相手には躊躇なく無礼さを表わすエピソードが代表的な事例だ。

(中略)

そういう面で日本社会の礼儀正しさとは、人間に対する条件のない尊敬と親切というよりは、セケンの規範を確認する一種の文化的コードと言っていいのではないだろうか?

(中略)

セケンを具体的に定義すれば、現在自己と利害関係があるか、あるいは今後利害関係が生じる可能性がある人間関係の総体といえる。例えば、家族、友人、同僚など現在人間関係を結んでいる親しい人々だけでなく、同一業界の従事者たち、学校や組織の同窓会メンバーたち、似たような趣味や関心事を持っている人々、町内の人々など意外に多様な人間関係と共同体がこれに含まれる。一般的な意味での国家や社会よりは狭い世の中だが、今後利害関係が生じる可能性のある共同体のメンバーを含めれば意外と大きな集団だ。セケンという概念を理解すれば、このような範疇に含まれない外国人や外部者に対しては無関心な傾向も説明できる。

(中略)

このような人間関係の様相が西洋人の目には馴染みがないだろうが、韓国人には特別に感じられないだろう。多少差はあるが韓国も日本も外部的な要因によって人間関係の脈絡と遠近を規定する性向が似ているためだ。韓国の場合、地縁、学縁、年齢などが重要だ。初めて会って気まずい仲でも同一地域出身であることを確認したり、同じ学校に通ったことを知れば、突然対話が花開く。社会的接点を見出すことが難しい時は、年齢によって序列を決めることもある。そういえば韓国人が世俗的な評判に気を使うという点でも、セケンを意識する日本人と似た面がある。「恥ずかしくないように生きたくて」死ぬほどお金を稼ぐ人もいれば、「他人の嘲笑を買わないように」子供を良い大学に行かせるという親もいれば、「他人の目のせいで」無理をしてでもブランド品を買わなければならないという人も多い。 他人の評判のために疲れて暮らすのは日韓共通かと思う。



韓国日報「자주 사과하는 일본인, 예의가 바른 것일까 아닌 것일까 [같은 일본, 다른 일본](よく謝る日本人、礼儀正しいのかどうか)」より一部抜粋

「日本は同調圧力が強い」はウソですからね。日本には日本の、韓国には韓国の、米国には米国の、欧州には欧州の...それぞれ地域のそれぞれの「同調圧力」の形があります。
例えば、米国では各自のアイデンティティ通りの英語のアクセントで話さないといけない、という圧力があります。「黒人は黒人らしく、アジア人はアジア人らしく」です。。そこから外れると「なんでそうしないの?」となります。ファッションもそう。ポリコレだって立派な同調圧力です。
英国では人種では無く階級(労働者階級や上流階級)でアクセントがガラっと変わります。著名人がアクセントを変えるとニュースになります。デイビッド・ベッカムなど、10年前と今のアクセントを比較されたりしています。ハリウッド進出した俳優なんかもよくターゲットになっています。
フランスには移民街があります。移民とその子孫はそのエリアでくらすべきという圧力があります。
ドイツも結構エグイです。メルケルさんが首相の時は彼女を「批判」するような発言は出来ない圧力があったそうですし、エネルギー政策に異を唱えることも出来ませんでした。その結果がロシアの天然ガスへの強依存です。また民族〇殺なんて同調圧力による密告がないと出来ないことでしょう。

見え方や分野別の強弱が違うだけで同調圧力なんてどこにでもそれなりにあります。


日本人が実践する「礼儀」はあくまで行動的な様式美だと思っていまして、相手が「こう」動いたら「こう」返すというのがまずあって、お互いが空気を読みつつそれをなぞる「行動」が日本の「礼儀」じゃないかと思っています。
だから相手の行動がそこからズレたら...つまり、自分が想定していたリアクションと違ったら無礼を働かれたような気がして気分悪くなるんでしょう。謝ったのに許してもらえなくて逆キレとかが典型です。
コラムの中の例だと「ルールを守らない人」に対して冷淡だとかなんとか書いているのがこの部分に当たると考えることもできます。
ただこの場合、日本人が謝らないのは単に「悪くないから謝らない」という単純な理由でしょう。「悪くなくても謝るのが日本人の礼儀」という前提で書かれているためか、「平等な個人に対する理解と尊敬心から湧き出たもの」と、「礼儀」を何かの宗教道徳のように定義しているため意味不明になってしまっています。ルールを守らない人が相手からは尊重されようとするのは単に図々しいだけにも思えますし、逆行していてブツかったのなら、相手からしたら「ブツかられた」との認識でしょう。まずこちらが謝るのが筋です。「礼儀」は「道理」を無視してまで示すべきものか、「道理」を弁えてこそ成立するものか、まずはそこからかもしれません。


コラムでは日本の「礼儀」を「文化的コード」としていますが、そんなものは別に日本に固有のものでもなんでもありません。韓国には韓国の、欧州には欧州の「文化的コード」としての「礼儀」はいくらでもあります。
それと「気遣い」「親切」「謙虚」「尊敬」などの「(相手に礼儀を示す)行動」の動機となる「感情」はまた別モノだと思うんですよね。感情面が関わるのは、相手と言葉を交わす距離感かどうかも絡んでくるのかな、と思います。言葉のやり取りがあるのなら最初からケンカ腰でいく人の方が少ないでしょう。だからこそ日本人は最初にワンクッション「すみません」と声を掛けるわけで、その「すみません」を「謝罪」と取られるのもちょっと納得いかないんですけどね。

あと、「世間」を「利害関係」とだけ解釈するのは韓国的だなぁ、と感じます。
「世間」は確かに自身が生きていく中で深く・浅く関わり合いを持つ共同体のことですけど、利害関係だけで結ばれたものでもないと思うんですけどね。家族や友人にまで、いちいち利害関係を求めるのでしょうか?

他人の「目」を気にするのは日韓共通、としつつ、韓国における「他人の目」の気にし方が物質的な価値に重きが置かれている(お金・良い大学・ブランド品...)のもとても韓国的ですね。


しかしこのコラムは毎回そうなんですけど、「日韓とその他」という括りで物事を見たがる傾向があるように感じます。
西洋には外部的な要因による人間関係がない、あるいは希薄だ、と本気で思っているのでしょうか?
西洋はどちらかというと、人間関係を自分で作るのに「人間関係」を利用することが多いだけで、外部要因がないわけではありません。
訳からは省略しましたけれど「利害関係のない人が大勢集まる西洋式パーティー」に日本人は馴染みにくい、というのがありました。西洋ではこれを社交の場、つまり人脈を広げる場と考えます。招待客はホストによって引き合わされます(招待客の参加人数はホストのメンツに関わるので顔見知りレベルでも普通に声かける)。これだって立派な「世間」です。コラムの主張に従えば「世間」は「利害関係」で成り立つそうなので、「利害関係」を広げる場です。
日本人がこういう場に不向きなのは、「利害関係」と割り切って人脈を広げるには前もって「目的」を設定して当たらないと動きにくいからです。いつ使えるか分からないけど、とりあえず顔を繋いでおくというのがちょっと苦手なんだろうと思います。